2013年3月29日金曜日

「小田島訳か福田訳か」(あいまいさと明確さの逆転)

 「テアトロ」の最新号「役者への忠告」のなかで福田恆存氏が平幹二郎主演「ハムレット」(帝劇=蜷川幸雄演出)を論じ、小田島訳の批判に及んでいます。これは去年の秋、「季刊芸術」で「せりふの美学・力学」で行った小田島批判のいわば延長上にありその縮小版ともいえるものですが、両方に共通する小田島批判の論旨は、小田島氏の翻訳は原文を平易な日本語に移し変えるだけのものであり、それはシェイクスピアの持つ躍動感を喪わせ、平板な、間のびしたものにするだけだというところにあるようです。
 福田氏は「せりふの美学・力学」のなかで、こういっております。「シェイクスピアにおいては、せりふが行動的なのであり、言葉が行動なのである。」と。
 また、こうも断言しております。「芝居のせりふは語られてゐる言葉の意味の伝達を目的とするものではない。一定の状況の下において、それを支配し、それに支配されてゐる人物の意志や心の動きを、表情やしぐさと同じく形のある「物」として表出する事、それが目的であり、意味の伝達はその為の手段に過ぎぬ、さう言っては言い過ぎであろうが、寧ろさう割切っておいた方がいい。随って語彙や言廻しの平易といふ事は殆ど問題とするに足りぬ。」と。
 そして、小田島訳を聖書の口語訳の平板さと同列のものと断じ、小田島氏の翻訳態度は「『源氏物語』は平安朝時代の話し言葉をそのまま口うつしに書き綴ったものと言った金田一京助氏の無智に匹敵する。」とまでいっております。
 果してそうでしょうか。小田島訳の平易さはシェイクスピアの躍動感を犠牲にして生まれたものなのでしょうか。そしてまた、小田島氏のシェイクスピア理解は福田氏のいうように「官立大学の教授達に給料を支払ってゐる納税者の国民大衆が気の毒である。」といった程度のものなのでしょうか。
 たしかに、福田氏のいうように「シェイクスピアにおいてはせりふが行動的なのであり」、また、「意志や心の動きを、表情や仕草と同じく形のある「物」として表出する事」がシェイクスピアの翻訳において、実際の上演にあたって、如何に大切であるかは、わたしの「受験英語の授業で教わってきた知識をそのまま適用」(福田氏が小田島氏を批判した言葉)しても十分にわかります。福田氏の考え方に全く異存はありません。ただ問題は、福田氏のこの観点に立つとして、果してどちらが、「行動的」な言葉を、「言葉が言葉を生んで行くリズム」を持っているかであります。それは福田訳か、小田島訳か。
 わたしの考えでは、小田島氏と福田氏のシェイクスピア観、言語観、演劇観、あるいは人間観が決定的ともいえる違いを見せているのは「ハムレット」三幕一場、あの有名な「尼寺の場」においてであります。
ハムレット
①このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
②どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに
 暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒涛の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。③死ぬ、眠る、
それだけだ。④眠ることによって終止符はうてる、
心の悩みにも、肉体に付きまとう
かずかずの苦しみにも。⑤それこそ願ってもない
終わりではないか。死ぬ、眠る、
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。  (小田島訳)
ハムレット
①生か、死か、それが疑問だ、②どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を耐え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとに引かぬのと、一体どちらか。③いっそ死んでしまったほうが。死は眠りにすぎぬ-それだけのことではないか。④眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる。胸を傷める憂いも、肉体につきまとう数々の苦しみも。願ってもないさいわいというもの。死んで、眠って、ただそれだけなら!眠って、いや、眠れば、夢を見よう。それがいやだ。  (福田訳)
 さて、上記のせりふは、第三独白の前半部分を引用したものであり、前者が小田島訳、後者が福田訳となっております。
 まず最初の一行あの有名なせりふ、
To be , or not to be , that is the question>をめぐって小田島氏と福田氏とでは根本的な考えかたの違いがあることがわかります。「トゥー・ビー」は恐らく三幕一場までに明らかになったハムレットの生きざまのすべてを表わす言葉であり、「ノット・トゥー・ビー」はその否定であるという立場に立つところに小田島訳が生まれ、ハムレットはいまここで生と死の想念に支配されているという訳者の認識を強く前面に出すところに福田訳が生まれたように思われます。小田島訳が漠とした広がりを持つ言葉としてあいまいに把えたところに福田訳は明確な方向性を与え、くっきりとした輪郭を持たせています。たしかにこの言葉を単独に取り出して見るかぎりでは、福田訳は小田島訳より「行動的」であるように思われます。福田氏の主張は、見事に実現されているように見受けられます。しかし、言葉は決して孤立した存在としてそこにあるのではありません。相互の関係の中に置かれています。明確な方向性と輪郭を持つと見えたものが、一つの構造を形成する時、実はその明確な方向性を、輪郭を、「行動性」を喪う場合がよくあるのです。そして最初あいまいに設定された言葉が他の言葉との関係性のうちに生きることによってそのあいまいさ故に、かえって行動性を獲得するということも起こりえます。
 なぜシェイクスピアはトゥー・ビーをトゥー・リヴとしなかったのか、なぜ、ノット・トゥー・ビーをトゥー・ダイとしなかったのか、そして小田島氏はなぜ「このままでいいのか、いけないのか……」と訳したのか、その理由もまたそこにあるように思われます。
 そのことを①と②の関連性に置いて具体的に考えてみることにします。まず、小田島訳では、原文のあいまいさに、その広がりに注目して①を訳出しているいために、②に移動することによって①が限定され、鮮明なイメージへと収斂する度合が福田訳より強くなっていることがわかります。というのは、福田訳では最初に原文に明確な解釈、限定を与えたために、①ははじめから②に含まれる場所に位置をとることになり、従って①から②の移動は同じ場所内での移動となって、小田島訳が新しい場所への移動という印象を与えるのに対して、福田訳では予想されたものが予想される所に移動したという印象を与えることになるからです。
 つまり、①をあいまいに出発させた小田島氏は言葉の動き、行動によってある新鮮な発見を与えることに成功し、明確な態度を表明して鋭いスタートダッシュを見せた福田氏は次第に減速して、鮮度のある発見を与えることが難しくなっているというわけなのです。それでは②そのものの内部ではどうなっているのでしょうか。
 ここでも福田氏は「ハムレットは意志的であり、行動的である」という観点に立って、原文を大胆に解釈し、勇ましい日本語を選ぶことに専念しているように見受けられます。全体に、福田氏ではハムレットの武人としての性格が強調され、従って小田島訳・福田訳の双方に見られる「運命」「苦難」という言葉が、福田訳ではハムレットの復讐により強く結びつけられることになっています。そして小田島訳は①でみせたあいまいさをここでも保持しています。たしかに「運命」「苦難」は、復讐と関係づけられてはおりますが、その言葉は同時に母への性的嫌悪感かもしれず、「さげすまれた恋の痛み」かもしれず、「くだらぬやつ相手にじっとしのぶ屈辱」であるかもしれない。要するにハムレットの<生>に圧倒的に、暴力的に襲いかかる何かであって、「雀一羽落ちるのも神の摂理」と感じるハムレットには、人生のどんな些事も「運命」に「苦難」に思われるというわけです。私見によれば「ハムレット」の面白さはハムレットが復讐という大事から逸脱して人生の小事にこだわるところにあるように思われますが、そのことはいずれ、ハムレットとオフィーリアの関係に言及するときに深く考えてみたいと思います。ここでは、もう少し②にこだわっていきましょう。福田訳は②の後半「とどめを刺すまであとに引かぬのと」のあたりやや説明的になってくどく、わずかながら、言葉が停滞する感じを与えます。また「どちらが男らしい生きかたか」と比較されている二つの生きかたの関係が全体の文脈のなかで弱くなり見失われそうな危険性があるために、最後にもう一度「一体どちらが」とくりかえすことによって②を引き締めにかかっています。
 福田氏が言葉を行動させるため、言葉を行動的に見せるために苦労していることは十分わかりますが、福田訳は、このあたり、意図的であり、作為的であり、つくられた行動、つくられた言葉のリズムであるという印象を否めません。これが福田氏の自負するように「日本語が多少とも達者の操れる」ことであり、「私が狙ったのはシェイクスピアのせりふに潜む強さ、激しさ、跳躍力、そこから出てくる音声と意味のリズムである」ことなのでしょうか。小田島訳では「敢然と」の<カ>音、「立ちむかい」の<カ>音、「闘って」の<カ>音、それに「立ちむかい」「闘って」の<タ>音を連ねることによって、言葉に「音声と意味のリズム」を与えることに成功しています。②の内部においても福田訳は解釈を、明確に大胆に打ち出そうとしたためにかえって全体の文章の調子にある弛みが生じ、小田島訳ではあいまいさを保持しながらも全体の調子は、きりっと引き締まったものになっています。そして③にきて両者の態度の違いはもはや決定的ともいえる段階に達します。明確さとあいまいさが単に程度の差と言った次元を超えて、本質的な対立を示し、小田島訳の行動性が福田訳の行動性のあいまいさを鋭く告発いたします。一見、③において小田島訳では実に簡素に、何の飾りもつけず無造作に言葉が投げ出されているように見えます。言葉は無表情にゴロリと寝ているように見えます。それに対して福田訳は「いっそ死んでしまったほうが」と積極、果敢な動きを、激しさを見せております。原文は<To die , to sleep No more>。やはり福田訳は明確な解釈を打ち出し、小田島訳は殆んど直訳に近い形をとっていることがわかります。福田氏は原文の無表情な言葉の並列に耐え切れず、小田島氏はそれにじっと耐えています。小田島氏は何を根拠に耐える姿勢をとり続けているのでしょうか。恐らくそれは私見によれば、俳優と観客の存在です。俳優の演技と観客の想像力にすべてを委ねるところで、小田島氏はあいまいさに、直訳に耐えていると言えます。つまり、こういうことです。小田島訳では、「死ぬ、」という言葉とそれを発する俳優との出会いに全てが賭けられています。俳優の言葉との出会いによって喚起される、観客の想像力の飛翔に全幅の信頼が寄せられています。たとえば、俳優は「死ぬ」という言葉を衝動的に発するかもしれない。また、深く沈むように、あるいは、不安におののくように発するかもしれない。いずれにしろ小田島訳では「死ぬ」という言葉と俳優の出会いは無数に許されているように見えます。俳優の表現の自由は大巾に許されているように見えます。どの出会いを自分の必然的なものとして選ぶかはすべて俳優に委ねられています。しかし、ここが肝心なところだと思いますが、俳優がどの出会いを選ぶにせよ、出会いが無数に許されてる以上、彼にとって、彼女にとって、自分の選びとった出会いが果たして本当に自分にとって必然的なものかどうかという疑問が、不安が湧いてきます。不安は俳優を出会いの再検討へと向かわせます。しかし、出会いが無数にある以上俳優は、この不安を決して根底から払い去ることは出来ません。俳優と言葉との格闘は稽古中も、本番中も果てしなく続いていくことになります。
このあたりが私見によればシェイクスピアを演じる場合のもっとも本質的なところであり、シェイクスピアのもっとも面白いところであり、俳優の立場からすればもっともシェイクスピアに魅かれるところだと思われます。シェイクスピアはそういう性質を持つ言葉の世界を創ったのであり、小田島訳はシェイクスピアのこの本質的な場所に自分を置くことにあくまでも固執しているというわけです。さて、当然のことながら、この俳優と言葉の出会いをめぐっての戦いは観客の想像力を強く喚起します。飛翔のための大きな翼を用意します。いま、こういう気持ちだから、こういう言葉を喋っているとすぐにわかる演技ほどつまらないものはありません。俳優と言葉が必然的な出会いをしていることはまぎれもない事実であると感じながら、その言葉が決して一元的には決められない多様な可能性として迫ってくる時にはじめて、観客の想像力に火がつきます。はじめて俳優と観客は、緊張した、充実した関係を持つことが出来ます。小田島訳の言葉に対する控え目な態度はそのことを期待するところに、また小田島氏自身が豊富な劇場体験によってそのことの重要性を身に染みて知っているところに生まれたものといえます。
 そして小田島訳とは対照的に福田訳では、俳優と言葉の出会いにあらかじめ注文がつけられており、福田氏の意図する方向においてのみ、福田氏が指定した軌道上においてのみ、俳優は言葉と出会うことが許されております。したがって俳優は自分の生理を、肉体を、意識を、いわば福田氏の生理に、肉体に、意識に同化させることによってのみ、表現性を獲得することが出来るといえます。そして、当然のことながら、観客もまた想像力の飛翔する方向を、高さを、速さを制約されることになり、福田氏の指揮下に一糸乱れず、整然と隊列を組んでいくことが要求されております。福田訳には常に正解があり、その正解はいわば神のように君臨しているといえます。
 といっても、別に小田島訳には正解が存在しないというわけではありません。「死ぬ」と、あいまいに言葉を設定した時、小田島氏自身一つの明確なイメージを持って、その言葉を選択したことにまちがいありません。しかし、小田島氏は自分の正解に留保を置いております。留保を置くことがかえって言葉の表現性を高めることを知っております。
 小田島氏の正解は俳優の、観客の正解と同じ背たけを持ち、同じ重さを持って同じ列に並んでいるように思われます。そしていうまでもなく、シェイクスピアはこの留保を、あいまいさを縦横に駆使することの出来た天才でした。彼は一つの言葉にあいまいさを附与しただけでなく、劇構造そのものにもあいまいさを仕組みました。劇中にいくつもの視点を用意して一つの行動、一つの状況に対して相対的に近づくことを求めました。その典型的な存在としては道化がおります。道化は、ヒーロー、ヒロインに常につきまとい、彼らの、彼女らの行動を、生きざまを相対化する視点を提供し続けるのです。また「アントニーとクレオパトラ」のような芝居では、二人の恋人をめぐって、各登場人物たちが様々な見解を披露することによってこの相対化の機能を果します。
 そして、私見によればハムレットはハムレット自身を相対化する存在として設定されています。ハムレットは突如不可解な行動に走りますが、それはハムレットの内部でこの相対化の嵐が吹き荒れていることの結果だともいえます。このハムレット解釈はハムレットを意志の人、行動の人と見る福田氏の解釈とは根本において対立しておりますが、ハムレット論についてはまたの機会にゆずることにして、ここではもう一度③に戻ってみたいと思います。③と⑤の関連において小田島訳、福田訳の違いをみたいと思います。さて、両者を比較してまず目につくのは、小田島訳において③の「死ぬ、眠る、…」が⑤で繰り返して使われていることです。そして、この同じ言葉が、⑤において、③の時よりもハムレットの死への傾斜が強くなっているために、より鋭い緊張を帯び、質的に変化を遂げていることがわかります。③においては「死ぬ、眠る、」はまだハムレットの意識の外側に、その周辺にありましたが、⑤では「死ぬ、眠る」はハムレットの意識に同化し、意識そのものともいえる次元に達しております。したがって⑤における「死ぬ、眠る」というこの短い言葉のつくりだすリズムは、ハムレットの意識の動きのリズムとも感じられ、意識が死の世界に、眠りの世界にまるごと降りていく様相を見事にとらえているといえます。そしてもう一度「…眠る」と意識が踏み出そうとした時に、意識は何事かを鋭敏にキャッチ致します。それが「おそらくは夢を見る」という言葉に結実いたします。とたんに意識は死の世界から、眠りの世界から引きあげてきます。そして意識は次第に覚めた状態に戻ってまいります。それが「そこだ、つまづくのは」です。
 「死ぬ、眠る」が、③と⑤において繰り返され、、⑤の内部でもう一度繰り返されようとした時に、その動きに急に破局がくる、この絶妙な繰り返しの効果といい、「死ぬ、眠る」がハムレットの意識に同化し、死の世界に傾斜していく動きをみごとに伝えるリズムといい、これこそシェイクスピアにおいては、せりふが行動的なのであり、言葉が行動である」でなくてなんでしょうか。これこそ、「言葉が言葉を生んでいくリズム」でなくて何でしょうか。福田訳では前に見たように③において明確な解釈を打ち出したために、⑤における繰り返しは不可能になっています。そして⑤の内部においてもハムレットは死のこちら側で、眠りのこちら側で、死について、眠りについて、あれこれ思案をめぐらすといったところに留まっています。わずかに「眠って、いや眠れば、夢もみよう」。の「眠って」が死への下降を示しているに過ぎません。もはや、ここにおいてあいまいさと明確さはそれこそ明確に逆転しています。あいまいさは「行動性」を獲得し、明確さは「行動性」を喪っております。とすれば、福田氏の小田島氏批判はそのまま福田氏の頭上に投げ返さなければなりません。
注)19781120日発行 劇団パンフレットに書かれ、それを再録したものです。長い文章ですが、あしからず。
  


2013年3月27日水曜日

「夏の夜の夢」の再生力 

「夏の夜の夢」のなかで私の好きなセリフの一つに、
「暗い夜は人の目からその働きを奪いとる、
   でもそのかわりに耳の働きを鋭敏にしてくれる。
   見る力をとりあげておいて、そのぶんだけ
   聞く力を二倍にしてくれるというわけ。」(小田島雄志訳 32  ハーミア)
がある。なぜこれが好きかというと、それには、私の個人的な体験を少しばかり話す必要がある。10数年前、私は心筋梗塞に倒れ、東京都港区虎の門病院でカテーテルの手術を受けた。幸い発見が早くピンチを脱することが出来た。その時、担当のY先生が、どうして撮ったのかわからないが、手術前の心臓の映像を見せてくれた。心臓は確かに動いている。しかし、冠動脈がなぜか心臓の手前のところで急に細くなっていて、血液の流れを悪くしている。これがもっと細くなって心臓に血液がいかなくなれば心臓の筋肉は死に、私も死ぬというわけだ。すると先生が、「ここをごらんなさい。」と映像の心臓を指さした。先生の指先には極細の鉛筆で描かれたような一本の線が見える。「なんですか」と聞くと、「血管ですよ、新しい血管ですよ。」と先生が笑いながら答える。「これまでなかったものなんですか。」と確かめると、「なかったんです。もともとなかったものです。身体が勝手につくったものなんです。冠動脈がせまくなったので、それとは別に血管を作って心臓になんとか血液を流そうとしたんです。」と先生の説明はやや詳しくなる。そして先生は、「タフですよ、出口さんは。」と私をからかうようにいった。
 先生の話を聞いていて私はなんだか嬉しくなった。少し元気が出てきた。それまで他人のもののように眺めていた心臓が、急に自分のもののようにいとおしく大切に感じられてきた。「心臓よ、あなたはよくぞ頑張った。」と目の前の映像にむかって頭をさげたいような感謝の気持ちが湧いてきた。私はなにもしなかった。なにも出来なかった。病床になすことなく横になっていた、手術台になされるままに横たわっていた。すべてあなたまかせ、他人まかせだった。たしかにY先生に「あと10年だけ、10年だけは生かして下さい。やりたいことがあるんです。」と必死になって頼みこみ、すがりついたりもした。しかしそれは単に気弱な病人の見苦しい泣き言にすぎない。生きようとするまっすぐな意志でもなければ、意欲でもない。その証拠に、あれから10数年経ったけれど、私はいまだにやりたいことがなんなのか、やるべきことはなんなのか、迷いに迷って暗中模索の状態にあるのだ。しかし私の心臓は、私とは無関係に必死に生きようとしていた。勝手に、私には相談もなしに新しい血管をつくり出し、血を求め、血を呼んで、ひたすら自らの命を生き延びようとしていた。そのことに私は驚いた。私ではない私が、私を生きさせようとして一生懸命に働いていてくれたことに深い感銘を受けた。
それまで私は何回も「夏の夜の夢」を演出していた。手を変え、品を変えて、いくつものヴァージョンの「夏の夜の夢」をつくっていた。しかし、冒頭に引用したハーミアのセリフに本当に出会ったのは、この、10数年前の心筋梗塞の手術後のことなのである。私の意志とは関わりなく生き続けようとする心臓の、絶えまない営みを知らされたときである。
私の心臓は、私の父母、その父母、そのまた父母、…と、気の遠くなるような年月を重ねながら形成されてきたものだ。長い歳月をかけて積み上げられ、蓄積されて、少しずつ生成されてきたものである。いわば人類史の成果だといってよい。視力を失ったハーミアの聴力がより鋭敏に変容するのは、ハーミアの愛の力だ。愛して、愛して、それでもなお愛して愛し続けるハーミアの際限のないハーミアの愛の力だ。それはハーミアのものでありながら、ハーミアのものではない、何かハーミアを越えたものだ。ハーミアは自分のものではない自分のものに駆り立てられて、暗い夜を走り続ける。
「暗い夜は人の目からその働きを奪いとる、
  でもそのかわりに耳の働きを鋭敏にしてくれる。」
そして、
「ライサンダー、あなたを見つけたのは目ではないのよ。
 ありがたいことに耳があなたの声に導いてくれたのよ。」
ハーミアをライサンダーに導く力、耳の変容をもたらす愛の力もまた、私の心臓の場合と同じように、人類の誕生以来、気の遠くなるような、長い長い歳月をかけて積み上げられ、育て上げられた人類史の成果だといっていい。私は私のちょっぴり不幸な個人的体験以来、このハーミアのセリフをそれまでとはまったく違う深さと重さをもって考えるようになった。
 このように、シェイクスピアの言葉には、セリフには、昔の昔の大昔より、いまのいまの現在にいたるまで、そして恐らくはるかかなたのそのまたかなたの未来にいたるまで変わることなく続くであろう本質的な生命力、いわば、人間の再生力、復元力、治癒力が、豊かに波うち、息づいているのである。

2012年4月22日日曜日

(女性たちのシェイクスピア)「ヴェニスの商人」の新人たち

M(ロレンゾー)の場合 その他
 最初シャイロックの娘ジェシカ、10日後には、もろもろの事情により、その恋人ロレンゾーに配役が変わった大阪在住のM(注、23才)はオーデションの合格者であり、唯一人の地方からの参加者である。Mの所属する大阪の心斎橋にある事務所からは「こちらから、やれと言わないと何もしようとしないのんびりした子なので、どうぞよろしくお願いします。」との主旨の長文のメールが届いていた。
 323日午後「ぺリクリーズ」の練習をしているとキャリーバックをひくMが、薬師前整骨院前の稽古場に姿を現した。いかにも住み慣れたアパートに小旅行後に帰ってきたような風情、面持ちである。「やあ、よくきたね。」と私が言う。「よろしくお願いします。」と柔かくMが言う。もうそれでMはすっかりこの狭い貧相なポーシャの館(注、稽古場のこと)の住人である。子犬のようにかわいい顔をしている。履歴書に添付されていた写真よりも、またオーデションの時の実物よりも、ずっと恰好いい、おっとりとした、愛くるしい女性である。身長163㎝、すんなりと伸びた長い脚がそれよりもずっと高く見せている。恐らく、出演者の誰よりも豊かな胸の隆起が、緊張しきった稽古場の空気を素知らぬ気に泳ぐ姿はきっと美しい風景となるであろう。この見事な隆起に、私の悪しき習性である怒声、罵声の連打は不釣り合いであり、不適格であると十分に知りながらも、その悪しき習性を抑え切れないだろう自分がいるかもしれないと思うと、これから先がちょっと恐ろしい。それほどまでにM(ロレンゾー)の醸し出す雰囲気は、和の風味に溢れているのである。(注、趣味は温泉めぐり、岩盤浴)それだけではない。M323日に上京すると、池袋に住む知人の美容師宅に身を寄せ、池袋のとある居酒屋にアルバイト先を見つけ、自転車を購入すると、それに乗って不慣れな東京の街を走り、稽古場に通い始めた。(注、数日後に自転車を盗まれる。) 15日ほど知人宅にお世話になると、今度は、中野駅(注、シェイクスピアシアターの最寄駅)より阿佐ヶ谷駅を挟んで二つ目のJR高円寺駅より徒歩10数分のところにあるマンスリーマンションに引っ越した。そしてふたたび自転車を購入、それに乗って、毎日一日も欠かすことなく稽古場に通っている。Mは、そのおとなしい、おっとりとした外見とは裏腹に実にたくましい生活力の持ち主、行動の人なのである。
 M(ロレンゾー)は上京初日、先ず「ぺリクリーズ」の稽古を見学する。Mは、腰を折ってお辞儀しながら、あるいは、腕を伸ばしながら台詞を発声する劇団員たちを興味深く眺めている。シェイクスピアターの練習方法に強い関心をもったように思われる。5時に「ペリクリーズ」の練習が終わると、それからはMの個人稽古である。この時は、まだ最初に配役されたジェシカのままである。在籍十年、短身度胸・満身愛嬌のK演ずるシャイロックの召使いラーンスロットゴボーを相手に「残念だわ、おまえがお父様から暇を取るというのは」とジェシカの別れの台詞をMが朗読する。Mのこの稽古場における記念すべき第一声である。お世辞にもうまいとはいえない。芝居というものに不慣れな印象を受ける。しかし、そこがなんともいいと思わせる何かをMは持っている。素朴である。素直である。天然である。下手でもなんでもいいよ、と思わず許してしまいそうになる気配がある。事務所育ちの人間には珍しい良質な原木、原石である。
 3月下旬、私は、ほとんどS(ポーシャ)、Y(バッサーニオ)に掛かりきりであり、Mの稽古を見る余裕がない。そこで短身短足のKが、長身長足のMの面倒を見ることになった。Kにはそれが満更でもない様子が伺える。Mがどうも気に入っているようである。Mの稽古2日目、例のお辞儀による発声をMに試みるKがいる。狭い稽古場の56を、S(ポーシャ)、Y(バッサーニオ)の稽古に私が使い、16Mの稽古にKが使っている。向こうとこちら、両方の声が聞こえる。姿が見える。そんな事は構っていられない。贅沢なことは言っておられない。お辞儀するMをちらりと盗み見をする。腰が固い、腰が曲がらないとKをはじめ、N芸出身の新人Fたちが楽しそうに騒いでいる。たしかにMの腰は90度以上には曲がらない。直角のお辞儀である。Mを坐らせる。何人かで背中を押しての柔軟体操である。温泉めぐり、岩盤浴は役立たずの趣味なのかと、私は苦笑いをする。しかし、Mにはいっこうに、へこたれた様子はない。「アレ!ナンデヤロウ!」とむしろ暢気に驚いている。しかし、なによりも私にとって嬉しいのは、遠く大阪より上京し、約23万円もの費用を使ってマンスリーマンションに移り住んだMが、わずか2日ほどでこの稽古場に、このシェイクスピアシアターにすっかり馴染み、溶け込んでいることである。そして3日後には、直角のお辞儀はあと15㎝ほどで頭が両足に届くところまでに急速な進歩を見せる。まさに奇跡である。Kの熱心な指導の賜物である。そのことによって、お辞儀を使っての台詞の文脈の取り方が可能になってくる。実に素直な癖のない朗読が稽古場の1/6の向うから聞こえはじめる。実はKが指導していたのは、Mだけではなかった。S(ロレンゾー)もいた。N(サリーリオ)もいた。しかし、SNKの全身火の玉となっての稽古に耐え切れず、火だるまとなって炎上、脱落していった。他にもスケジュール上の不都合で二人が、演技能力の不足一人が、オーデション合格者計9人のうち5人が脱落していくという結果になった。個人稽古が始まってわずか一月ほどの間の出来事である。残るのは4人、Y(バッサーニオ)、F(ジェシカ)、そして上記の事情で配役の異動があり、老ゴボーと、サリーリオの二役を演じることになった某私立大考古学科出身のM(注、大阪のMではない)、そしてジェシカからロレンゾーに変わったMである。この四人をよくよく観察してみると、実に残るべくして残ったという印象が深い。特にY(バッサーニオ)と、M(老ゴボー、サリーリオ)は私の猛特訓にここまでよく耐えに耐えて、耐え忍んできた。二人に共通するのは喉声、胸声であったことである。これを矯正するためにM(老ゴボー、サリーリオ)の場合には、ただ稽古場を台詞を喋らせながら、後向きにぐるぐると速い速度で歩かせた。私はMを足で歩くというより、むしろ上半身を腰で運ぶような感覚で歩けと叱咤し続けた。少しでも声が上に、喉に、胸に上がると罵声を浴びせた。Mは一日で筋肉痛に襲われた。両脚の内側に、腰に、サロンパスを貼りつけた。それでも構わす後向きに稽古場を廻らせた。一月ほど続けると少しずつ声が下に、腹に落ちはじめてきた。いまも休まずそれを続けている。怒声、罵声の嵐が止むことはない。芝居の出来ない連中にかぎって芝居とは何かを考えたがる。頭で芝居して、それが何か立派なことであるかのように錯覚している。芝居は頭ではない。頭のいい奴が役者になんかなるはずがない。M(老ゴボー、サリーリオ)には、徹底してそのこと教え込む必要があった。いまもある。油断するとすぐになにかを考え、なにかを仕出かす。だから稽古場を後向きに腰に上半身を乗せてぐるぐる廻らせるのである。回転速度を速め、5周、6周、10周と廻ればなにも考えることが出来なくなってくる。考える暇、余裕がなくなってくる。息が切れる。はぁ、はぁ、と吐く息が荒くなってくる。両足がよろよろと縺れてくる。腰が砕けてくる。腰が崩れる。ふらふらと千鳥足になって、いまにも床に倒れそうになる。馬鹿状態である。白痴状態寸前である。その時なおも台詞を喋ろうとすれば、必死に発声しようとすれば、はじめて芝居は頭ではない、からだだ、腹だ、腰だ、足だ、と身にしみて分かるのである。15坪ほどしかない狭い稽古場が恨めしい。都内の小・中学校の校庭とまで行かなくとも、せめて体育館程度の広さが欲しいと切に願う。そこで、その広さのなかを M(老ゴボー、サリーリオ)を廻らせてみたい。芝居は頭だと考えている連中には最適の人間改造の場になると考えるからである。
正直に言おう。20代の頃、私は自分が体育会系の人間であることをすっかり忘れ、芝居を、主に新劇を、知的世界の産物であるかのように錯覚して、それを知的思考の対象とすることに過大な意味を与えていた。私の演出がなんとなくうまくいって、ヨッシャ!と思える時は、必ずといっていいほど、頭を働かせるよりもからだが自然に動いて芝居をつくらせていたにも拘わらず、それでもなお、芝居を知的に分析することに優位性を与えようと考え続けていた。60才の時に病気で倒れてから、はじめて少しずつ真剣に、芝居はひょっとしたらからだではないかと考えるようになった。それから10年たったいま、当初考えていたよりもはるかに芝居におけるからだの占める割合のい多いことに驚いている。極論すれば、芝居は100% からだ といってもいいぐらいだ、と考えている。
ところで、 Y(バッサーニオ)もまた、頭の病気を持っていることが、一月、二月と稽古が進むにつれて判明してきた。頭で考えることが好きなのである。好きで好きでたまらないのである。自分で私は分析好きといっているくらいである。個人稽古が夜の10時まで続いて、中野駅までの一緒の帰り道、Y(バッサーニオ)は、よく私に知的な術語を使って楽しそうに話しかけてきた。私は、奇妙な感覚に襲われた。Y(バッサーニオ)の台詞の喋り方の幼さ、未熟さに比べて、それはあまりにアンバランスな内容のように感じられたからである。ある時、私は、Y(バッサーニオ)になにも考えるな、何も感じるな、何も台詞に入れるな、ただいい声をしろ、それだけで台詞を言えと指示をした。すると、驚いたことに、Y(バッサーニオ)は、しっかりとした、よく響く声で、明確に台詞の文脈を語ったのである。つまりYは、考えることの好きなYは、台詞を考えに考え、感じに感じて、喉声になり、胸声になり、深みのない、うすっぺらな声になり、不明瞭に、不明確に台詞を喋ることを芝居だと、本当の芝居のありかただと考えていたわけである。だからといって、Y(バッサーニオ)の考え好きの傾向はそう簡単に矯正できる程度のものではない。相当に深刻な、根深い病気である。今日はうまくいっても、明日もうまくいくという保障はどこにもない。これまでも、もう大丈夫と何回も確信し、これではどうしようもないと何回も絶望的な気持に追いやられてきた。繰り返し、繰り返しの稽古である。それしかない。Y(バッサーニオ)もまたそこから、その病気から、脱却することの重要さを、自分にとっての大切さを十二分に認識している。何も考えずに、何も邪心抱かずに、ただ無心に台詞を喋る時のY(バッサーニオ)には、美しい存在感が溢れる。それを完全に把んで欲しいと願って、今日も私は稽古を続けている……。
オーデション合格者のうち、脱落せずに残ったもう一人、F(ジェシカ)については、あまり心配することはない、と私は考えている。たしかに都内某私立N芸大の出身だけあって、芝居を頭で考える傾向を少なからず持っている。しかし幸いなことにF(ジェシカ)には、素質として役者本能が十分に備わっており、それが頭で考えようとする傾向をはるかに凌駕してしまうのである。そしてF(ジェシカ)の場合、心配なのは、頭で考えることよりも、むしろ、その役者本能のほうなのである。F(ジェシカ)は、根っからの芝居好きである。芝居しすぎる人なのである。今日、生身の、生き生きとした芝居をしたとしても、明日は必ずといっていいほど、それをお芝居のお芝居、つまり単なる絵空事にしてしまう危険性を持っているのである。F(ジェシカ)の役者としての成長は、一にも、二にも、そこをどう超えるかにかかっている。
さて、冒頭のM(ロレンゾー)に話を戻す。M(ロレンゾー)には、Y(バッサーニオ)、M(老ゴボー、サリーリオ)と違って、頭で芝居を考えることを心配する要素は全くない。またF(ジェシカ)とも違って、お芝居をする傾向も少しも見られない。ただひたすらに、短身短足・全身熱心のKの教えを、なにほどの疑いも持たず、長身長足で素直に受けとめている。M(ロレンゾー)は、舞台に立つことが、ただ無邪気に楽しそうに、嬉しそうに見える。1例を挙げる。2日前、第一幕一場の立ち稽古。「まったく、どういうわけだかおれは憂鬱なんだ。」というアントーニオを友人たちが心配そうに見守っている。ロレンゾーのMもその一人のはずである。ところがふと目をやると、M(ロレンゾー)は我関せずとばかり、正面を向いてポーズを取り、嬉しそうににこにこしている。「おい、どうした、Mよ、これはファッションショーではないよ」と私。稽古場には明るい笑い声。もう1例。今日、第五幕の立ち稽古。ジェシカのFとロレンゾーのMが、月夜の庭園を美しい台詞を交互に語りながら散歩する場面。「はい、そこに坐って」と私。すると、M(ロレンゾー)は何を考えたか、さっさと芝居をやめると、稽古場の隅のほうに歩きだし、そこにあった椅子を一脚持って元の位置に戻ってきたのである。「なにするの」とあきれる私。「えっ…」と怪訝そうなM(ロレンゾー)。「そこに坐るんだよ、床に、そのまま」と笑いたくなる私。「そうですか」と事もなげに椅子を元に位置に戻すM(ロレンゾー)。万事こんな感じかな。これで芝居が出来たらどんなに幸福かと一瞬有らぬことを考えてしまう私も、大昔はこんなところもあったなぁと、芝居の世界に入りたてのころの自分をちらっと思い出す。しかし、いずれはそれではすまなくなるときがくる。 M(ロレンゾー)よ!そのまま素直に育てと祈る気持と、短身熱心・全身献身(注、シェイクスピアへの…)のKよ!このままよき指導を続けてくれと願う気持ちとが、私の心を切なくいっぱいにする。
(女性たちのシェイクスピア)「ヴェニスの商人」の新人たち、S(ポーシャ)、Y(バッサーニオ)、M(ロレンゾー)、F(ジェシカ)、M(老ゴボー、サリーリオ)へ贈るシェイクスピアの言葉。
「やってしまったらそれがなにかわかるでしょう。」(「恋の骨折り損」 田舎者のコスタードの台詞)(小田島雄志訳)

2012年4月10日火曜日

(女性たちのシェイクスピア)「ヴェニスの商人」の新人たち

Y(バッサーニオ)の場合
(注、親愛なる読者の皆様、大変遅れて申し訳ありません)
 S(ポーシャ)の到着より2週間ほど前、2月下旬にはすでにバッサーニオYの稽古は始まっていた。Yはオーデションによって選ばれた女性である。選ばれた理由は、別に、第1問、第2問の朗読が良かったからではない。それは、これといって取り立てていうほどのものもない、いわば並すれすれの出来であった。ただ勢いはあった。といってもそれだけであった。私が最も注目し、選考の最も重要な要素としたのは、履歴書に高校時代、やり投げの選手であったこと、それにハーレー(注、アメリカ製のバイク)を乗りまわしていることであった。多くのオーデション参加者がクラシックバレエ歴8年、ジャズダンス歴5年、フラメンコ歴4年、バスケットボール歴2年、ソフトボール歴3年、水泳歴6年等々、履歴書にあることないこと平気で嘘八百を並べたてているなかで、やり投げは、その異質性に於いて際立っており、これだけは嘘はない、本当だと信じたのである。それにハーレイとは、いかにも恰好いい。さらに身長164㎝、美人とくると、何ともぐっとくる恰好よさである。私は乗物はからきし駄目である。自動車もオートバイも運転出来ない。自転車をこぐのがやっとである。(注、いまはどうかな…) またハーレイが何物であるかも詳らかに知らない。私の無能と無知がハーレイを乗りまわす長身の美人への妄想を強く掻き立て、その恰好よさの度合をますます浮揚させる。私はYと全くあてのない旅に出ることに決心する。
 個人稽古初日(注、2月下旬)にはマネージャーのN女史が同行した。稽古を見たいという。熱心な人である。稽古が始まる。バッサーニオの劇中の第一声は、「やあ、例のどんちゃん騒ぎはいつだい」である。 「やあ」とYがいう。「待て」と私がいう。「やあ」とふたたびYが繰り返す。ふたたび「待て」と私が止める。喉声である。胸声である。大声である。ただそれだけである。相当な代物である。難物である。前途多難が予想される。本当に本当に困ったと思う。
ふと37年前のジァンジァン時代のことが脳裏をかすめる。昨年の4月、訃報を聞いたKとはじめて出会った時のことを思い出す。場所は荻窪駅前、ひょろ長い、馬面の青年がキョロキョロしながら私を待っていた。私もゴム草履、短パンのさえない恰好をしていた。Kをそれと認めた時の私の気持ちはいいようのない寂しいものであった。こんな奴と、こんなどこの馬の骨ともわからない奴とこれから先、いっしょに稽古に励むのかと思うと、励むにも励みようのない底知れない落胆、失望に襲われた。しかし、1年後には、Kはジァンジァンの中心的メンバーとなり、彼の演じた「十二夜」のマルヴォーリオ、「リア王」のリア、「夏の夜の夢」のボトムは、日本のシェイクスピア上演史上最高の演技であり、それを凌ぐほどのものは、いまだに出ていないというのが、私の確固たる考えである。彼の死を心より悼む。いま、テレビ、映画の世界で活躍するKと同期のW(男性)、S(男性)もその当時は20才前後の芝居も知らなければ、もちろんシェイクスピア作品は、全く知らない無知な青年たちであった。ただ、やたらにやる気だけはあり、その勢いは目を見張るものがあった。それだけが取り柄であった。いまバッサーニオのYにジァンジァン時代のWを、Sを重ねて見る。私を励ますためである。希望の源泉をつくるためである。Y(バッサーニオ)には、勢いがある。なにしろ、やり投げである。ハーレイである。やる気も十分にあると思う。W(男)、S(男)と同じだと思いたい。思い込みたい。絶対にそうであれ、Yよ!と祈りたい気持ちでいっぱいである。
稽古に戻る。マネージャーのN女史が注視している。「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」のお辞儀をさせながら、「やあ」を言わせてみる。シェイクスピアシアターでは、ここ十年来、定番となっている台詞を言う時の体位である。芝居は腰である。下半身である。顔ではない。胸でもない。腰、腹である。台詞は腰で読むのである。腰が語るのである。誰が何と言おうと、どんな演技論、演劇論が、どんな立派なこと、勇ましいことを言おうと、芝居は絶対にただ腰である、腰の動きと、台詞の動き、文脈、台詞の生命の流動性、そのダイナミズムとを関係づけることである。台詞がある。腰が動く。それが、直感的に、本能的に連関するまでに毎日ただひたすらに腰を動かして台詞を読むのである。台詞をいずれは全身で生きるための準備をするのである。つまり、前述した「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」のお辞儀を繰り返すのである。床に坐っていてもいい。椅子に腰かけていてもいい。もちろん立っていてもいい。お辞儀、お辞儀、心を込めてのお辞儀の繰り返しである。腰を傷めたなら、幸いなことに稽古場のすぐ目の前には薬師前整骨院が待っている。私がお辞儀をする。Yがお辞儀をする。どうにもサマにならない。また私がお辞儀をする。2度、3度とやって見せる。Yが真似をする。やはりどうにもならない。私がまたお辞儀をする。Yがぎこちない、硬直したお辞儀で繰り返し答える。前途多難が具体化しつつあると感じる。私のやった通りにやったとばかりYは思っている。二人の距離は遠い、本当に遠いなぁ…。「アルバイトは何をやっているの」と聞いてみる。「A町のパン屋です。」とYが答える。「パン屋ではお客様にどんな挨拶を?」と尋ねる私に「いらっしゃいませ、ありがとうございます、です」とYは元気よく、直線的に腰を折って見せる。「A町ではもう少し丁寧にお辞儀はしないの、もう少し心を込めて。」「はい、でもこんな感じです。」  これはいかん、と少し焦る。お辞儀は使えそうにない。30分ほどお辞儀の稽古が続いたところで休憩に入る。マネージャーのN女史に感想を求める。「先生のダメが出る箇所は、いつも決まってYが台詞を食む(注、はむ と読む。食べるの雅語)所なんです。」とN女史は右手の指先を使ってパクリと小動物が食物に食いつくような真似をして見せる。私はN女史のこの「食む」という言葉に魅せられる。そしてなかなかの卓見、鋭い観察だと恐れ入る。Yは顎を出し、顎を杓り、顎を使って台詞を喋っていたのである。Yにとって芝居とは、演技とは顎なのである。これは、単なる癖というより、私の経験の教えるところでは、なかなかの、どんな特効薬もないところの難病である。それを直すためには自分自身の深い自覚と、それを克服するための強い意志、絶ゆまない努力が必要である。他人は「それまた、顎を出した」と指摘、注意することは出来る。しかし、そこまでである。そこから先、顎を使うことから立ち直るのはあくまでも当人であり、当人自身の戦いなのである。その日の2時間の稽古が終る。苦戦、苦闘の始まりである。帰り際にN女史が恐ろしい、しかし勇気ある言葉を残す。「血反吐が出るまで叩いて下さい。」
やはり2月下旬、二回目の個人稽古である。腰でのお辞儀を諦める。右手を肩の少し上の方に構えて、水平にゆっくり前に押し出す方法を使うことにする。同時に左手は胸の前方に置き、右手が出るのに合わせて同じ速さで引いていく。その時、右足に体重を乗せ、左の膝を緩める。目安は、シェイクスピアの詩の台詞1行に対して、右手が伸びきるまでとする。なお、この右手の動きにつられて、頭部、顔面が前方に傾いていかないように注意することが大切である。右手がゆっくり前方に押し出される。右足に体重が乗る。頭部、顔面は、この体重の移動とともに、気持、少し後に引くぐらいのほうがいい。といっても、それもまた、微妙な動きが必要である。私がやって見せる。右手を貯めながら前方に押し出す。Yも右手を前方に出す。しかし、この「貯める」という感覚がどうにもYは把めないでいる。この「貯める」を辞書で調べてみると「水を貯める」「お金を貯める」の他に「満を持して、こらえにこらえて……」とある。やり投げの選手であったのであれば、この「貯める」の感覚はすぐに理解できるはずであるが、現実にはなかなかそうはいかない。つまり、やりと言葉の違い、スポーツと芝居の違いである。Yはそう思い、これまで台詞を喋り、演技をしていたのだと考えられる。しかし、私にとっては、それは全く同一物なのである。スポーツはどんな競技でも、基本的には腰である。芝居の基本も腰である。腰の決まらない演技者は、舞台に出ていても出ていないも同然なのである。存在の不在である。要するにスポーツも、そして当然やり投げも、腰によって、腰という共通の場所を使うことによって、芝居に接近し、次第に同じようなものに変容していくのである。Yは立派な身体の持主である。腕には、すばらしい力瘤ができる。脚部には筋肉が力強く盛り上がっている。それにも拘らず、この逞しい身体のごく一部しか、台詞を語る時に参加させていないのである。稽古が続く。腕を貯め、押し出す感覚を繰り返し、繰り返し、練習させる。しかし、Yはすぐに腕だけだと思ってしまう。危険な誤解である。腕を貯め、押し出す源泉は言うまでもなく腰にある。いわば腰から、下半身から、腕が出ていくのである。この脚部、腰部、胸部、そして肩、腕と動いていく身体の柔軟性、流動性こそが、Yには、先ず最も求められる。Y(バッサーニオ)のいいところは熱心なことである。それも非常に熱心なことである。Y(バッサーニオ)は、いつも、いままでの自分を変えたいという。私の考えに翻訳すれば、それは顎と別れたい、顔と別れたい、胸と別れたい、上半身と別れたい、ということである。個人稽古を、毎回3時間、4時間と重ねるうちに少しずつ、腰から腕へのスムーズな移行が出来るようになってきた。あとはこの腕の貯め、前方への押し出しと台詞の流れ、文脈とを合わせることである。
いま、「グラシアーノが口にするのは果てしないほどの無意味な言葉の連続さ」の台詞の
     ①       ②     ③     ④
「果てしないほど/無意味な/言葉の/連続さ」を考えてみる。①は②に係る。①②は③に係る。①②③は、④に係る。つまり、①②③は④に係る長い形容詞的修飾語ということになる。この①②③の、④に向かって流れる言葉の文脈、言葉の生命の動きを、腰に源泉を持つ腕の貯めながら少しずつ前方に押し出される動きに合わせるのである。しかし、シェイクスピアの演技の基本は、何度も強調してきたように、声は腹からである。この腕の動きだけでそれが保障されるものではない。それにはまた、別の訓練を必要とするのである。
さて、Yの腕の動きと文脈のつながりに少しずつ進歩が見られるようになってきたところで、34日(土)午後6時、シェイクスピアシアターの1期生、2期生、3期生を中心に約30名ほど集まって、それまでに亡くなった同期生たち5人を偲ぶ会が催されることとなった。Y(バッサーニオ)との稽古は7時からに予定されている。懐かしいメンバーが、続々と集まってきて稽古場がごった返す。オフィーリアのSもいる。キャタリーナのYもいる。ロミオのT、ピンチ先生のS、フォルスタッフのW、ドグベリーのT等々…。思い出話に花が咲き乱れて、騒然となる。Y(バッサーニオ)が7時にやってくる。事務所用に使っている離れの2坪弱の小部屋で、腕を押し出しての稽古をはじめる。隣の稽古場からは、男たちの大声が響く、女たちのこぼれるような笑い声が聞こえる。酒宴は最高の盛り上がりを見せている。こちらの小部屋では、「外観の美しさは中身を裏切るものかもしれない」とYの腕が押し出される。すると37年前、ただ勢いだけの無知な青年であったWの大いに酔った賑やかなダミ声が、当時の勢いそのままに聞こえてくる。「だが、見すぼらしい鉛よ…」とY(バッサーニオ)が腕を貯める。YWが重なり合って、私の耳に聞こえている。すると小部屋のドアをノックする音がする。オフィーリアのSである。ジァンジァン時代の写真を借りたいという。複写するためである。「どうぞ」と答えて稽古を続ける。またドアをたたく音、3期生のS(マライヤ)がトイレはどこですかと聞く。事務所をトイレと誤解したようである。15分ほど稽古を続ける。今日のYは順調である。安堵する。今度は、2期生のN(女性)が顔を出す。トイレはどこですかとまた聞いてくる。稽古場では、みんな上機嫌に酔っている。大騒ぎになっている。その隣の狭い小部屋では、Yの筋肉質の腕が繰り返し、繰り返し、前に押し出されている。
To Be Continued

2012年4月1日日曜日

(女性たちのシェイクスピア)「ヴェニスの商人」の新人たち

S(ポーシャ)の場合
 ここで言うSとは、シェイクスピアシアタ―のS(ネリッサ)のことではない。ポーシャのSのことである。私がはじめてS(ポーシャ)を見たのは、昨年の7月初旬、文学座新館2Fの稽古場、研修生の有志による自主発表会に出かけた時である。演目は、村上春樹原作「海辺のカフカ」。室内に入って、入口側の急拵えの椅子席(注、約30席)の中央に腰を下ろすと、右側の壁の前に背広姿の女性が背筋をすらりと伸ばしてパイプ椅子に坐っているのが目に入る。目はそこに止まったままじっと動かなくなる。細面の美しい人である。長身の痩身である。清らかな空気が柔かくあたりを包んでいる。心が騒ぐのを覚える。理由は分からない。なにか大切なもの、貴重なもの、決して手離してはならないものと出会っているのだと心の奥の声が告げる。ヒッチコックの映画「めまい」の主人公ジェイムズ・スチュワートが美術館で一枚の絵に見入るキム・ノバクに心を奪われる場面を思い出す。(注、カッコヨスギカ?)私もまた、身じろぎもせず一心に前方を見つめて、未知の時間を呼吸しつつ端坐する人の美しい顔に目を奪われ、心を乱されて。どこに行きつくかもわからない未知の時間を、同じように呼吸している自分を見い出す。その人が誰かも知らない。その人の名前も分からない。発表会を見に来た人では決してない。客席に姿を見せたまま、舞台への登場を待っている出演者の姿勢かと見える。緊張の息づかいを静かに殺している気配がわずかに感じられる。なにがこうまで引き寄せるのか、なぜこうまで引き込まれるのか。静かなたたずまいのうちに多少の品格さえ備えて着座する若い女性。その人のすんなりとした白い手に紡がれ、繰り出されて、私の心の奥の、そのまた奥の根にしっかりと結びつき、絡みつき、ぐいぐいと手繰り寄せる見えない一本の糸の正体を、いま、この場で探り当てることは私にはとても難しいことのように感じられる。私は虚の世界に住む人間である。実に世界にはとてもそぐわない宿命に置かれているように感じながら、少年期を生き、青年期を生き、いまもそのように生き続けている。だらしない、仕方のない、役立たずの、厄介者の生き様である。その私が、私を引き寄せて止まないこの見えない白い糸の秘密を解き明かそうとすれば、この美しい横顔を見せて静かに端坐する若い女性を、逆に虚の世界に引きいれて、そこに共に生きるほかに術がないのではないかと思われる。切に一緒に仕事をしたいと願う。
 芝居が始まる。戦中、戦後、現代と各時代の傷ついた魂たちの漂流、邂逅、別離の物語が、性的言語を多用しながらSF風に展開される。その人が着坐の姿勢を崩す。いよいよ登場の時が訪れる。私の右前方に背広姿で立つその人は、すらりとした背丈の細面にわずかに少年の面影を宿すかに見える清潔な女性である。女性は難解な存在論的哲学用語を立て続けに早口で喋り続ける。女性はどうやら地方都市の図書館に勤める司書のようである。すると突然この司書が言い放つ言葉。「私、セックスする時は肛門を使うの」 この手のことには十分に慣れているはずの私の心に一瞬動揺が走る。どぎまぎしてうろたえる自分を不思議そうに見ているもう一人の自分がいる。恐らくそれは、この若い女性の清潔感と、「肛門」とのアンバランスな組合せから来るものだろうと思われる。動揺が鎮まると、奇妙なことに、私の心に一種の爽快感が残る。私はそれを嬉しさいっぱいの気持で受け容れている。「肛門」はこの若い女性の発語によって、浄化、浄清されることになったのではないかと考える自分をもう一人の自分がやや苦笑しながら眺めている。舞台ではそんなことにはお構いなしに司書による自己の存在についての哲学的分析が早口でひたすらに続けられている。司書は、心は男性でからだは女性の性同一性の人間である。心としての男性がからだとしての女性を拒否して肛門を使用してのセックスにおよぶのである。女性は、舞台上の位置を持続して少しも変えることはない。そのまますらりと立ち続けて、性同一性の自分の存在について懸命に語りかける。相手の、年上の同僚女性もまた、学生時代内ゲバで恋人を殺された暗い記憶を持つ。図書館の一室での、傷ついた二つ魂の出会う場面である。女性は決してうまいとはいえない。むしろ、多分に、生硬さを残す演技である。それにも拘わらず、あまりの早口、あまりの難解な用語の故に、時々痞えながら語り続ける台詞の背後に、なにかが呼ぶ声を聞く。なにかが招く手を見る。幻聴である。幻視である。しかし虚の世界の住人にとっては、それが実の声、実の手なのである。虚の住人は、また、思い込み、思い違いの人でもある。私の墓碑銘はすでに決まっている。「マルヴォーリオよ、安らかに眠れ!」(注、「十二夜」取り違いの大名人)である。これまで私は、決して思い込みではない、思い違いではないと確信しながらも、何度も思い違え、取り違えを繰り返してきた。私の個人史は、思い込みの連続史であり、思い違いの多量に陳列される宝物殿である。しかし、これはいままでとは違う、これはそういうことではないと思う心がすでに思い込みであることを知りながらも、その危険に勇んで身を投じるのが虚の住人の特権的特技というものである。
 舞台が終る。有望な新人たちの、実に新鮮な感覚に彩られた、実に刺激的な舞台であった。「海辺のカフカ」が村上春樹の作品の中でどのような位置を占めるのか、いまの私には分からない。もうずいぶん彼の作品を手にすることがなくなっているからである。「ノルウェーの森」を夢中になって読み、その後2、3冊読んだところで、村上作品との私の交流は終わっている。たしかに、新人たちの舞台は未熟であり、未完成であった。纏まりのつかない箇所も多く見られた。しかしそれにも拘らず、私がこの舞台を高く評価するのは、これほどまでに傷つき果てた魂たちの時空を超えて漂流する物語を、文学座のアトリエ公演、本公演に見ることは極めて稀なためである。それだけではない。新人たちの見せる演技は司書も含めて、村上春樹の深い挫折感の言葉を自分の言葉として、自分のからだを通して発せようとする必死の姿勢に貫かれており、それが、生々しい存在感を見るものに与えているのである。その演技は新人たちが卒業公演で、研修生発表会で見せたものとは全く異質の、つくりものではない、現実に生きる自分と舞台に生きる自分との関係を探し続け、求め続けるところから生まれる演技というものの真の姿を示す、秀れた性質を有するものであった。
 芝居の数日後、私は端坐の人がSであること、研修生2年であることを知る。ともに虚の世界に生きるにはまだ半年以上もあることになる。(注、卒業するまでは原則として外部出演禁止) 二度目に私がSを見たのは、今年の1月21日(土)午後6時30分、文学座アトリエ、研修生の卒業公演の時である。演目はイギリスの作家の芝居で「OUR  COUNTRY`S GOOD―われらが祖国のために―」(演出松本裕子)である。研修生2年の人たちはこれが最後の発表会であり、これによって最終的に準座員として文学座に残るかどうかが決まる大切な公演である。
 あの日、昨年の七月初旬、一心に前方を見つめ、未知の時間を呼吸しつつ静かに着坐していた清らかな性同一性の司書は、ここでは暴力的な荒くれものの女囚に変貌して登場する。「男が好きなのは女のオ××コだけよ」とSが喚めいても、「オ××コ」、「オ××コ」と連発しても私には少しの動揺もない。まごつきも、うろたえもない。なにか遠い風景のようにそれを見ている平静な自分がいるだけである。なぜなら、私にとってのSとは、芝居以前のS、「海辺のカフカ」の登場を端然と待ち続けるS、その時のSの手から送り届けられた一本の白い糸だけがSと私の縁(注、えにし)の明かしだからである。
 芝居が終る。アトリエの外に出て、私は同じ舞台に出ていた知人のKを待つ。するとSが私のすぐ横を早足に通りすぎて、卒業公演を見に来てくれた友人たちのほうに向かっていく。風が立つ。心が騒ぐ。Kが出てくる。3/4は賞める。1/4はいまひとつと伝える。Kが感謝と別れの挨拶を告げる。Sの姿はもう見えない。アトリエを後にする。帰路に着く。道々、卒業公演について考える。素晴らしい演技を見せる新人女性が一人いた。群を抜いて際立っていたと思う。声も身体も、時に力強く、大胆に、時に微妙に、繊細に、自在に変化して豊かな演技を舞台上に十二分に発揮していた。その女性だけが翻訳劇の領域を越えて、自分を表現していた。SKも、その後に続いて標準以上の出来映えを示していたと私は思う。(注、後日、三人とも準座員に昇格しなかったことを知り、ショックを受ける)
 卒業公演後すぐに文学座映放部の三上氏にSの出演の申し込みをする。その旨伝えるが、まだ準座員に昇格するかどうか分からないので、責任を持てないとの返事を得る。一応文学座を通すのが筋と考えて、Sへの直接の連絡はとらないことにする。待つ。待ち続ける。何事もない。一月程たったところで三上氏に連絡を入れる。Sは関心を持っているという。よかったと思う。ほっと安心もする。しかし祖父の病気の看護で岡山に(注、本当は倉敷でした)に帰っている、いつ会えるか分からないと三上氏。ポーシャをお願いしますと告げる。そしてまた待つ。一週間待ち続ける。待ち切れなくなったところで電話を入れる。お委せしますとSから回答がありました、と三上氏の声が明るい。
 3月上旬、薬師前整骨院前の稽古場(注、ポーシャ邸)にいよいよポーシャのSが登場する。
To Be Continued

2012年3月24日土曜日

シャイロック登場Ⅱ


Mは有能の作家(注、大場)の小柄で、質素な妻であり、夫の虐待に対する忍従を、隷従を、盲従を、犠牲、献身を、細密画のように、実に正確に、実に緻密に描いて、太宰治の「ヴィヨンの妻」もどきの雰囲気を漂わせる。Mの構成力、集中力には相当程度の能力のあることを伺わせる出来栄えである。
有能作家、大場は、加虐の人であり、その妻Mは、被虐の人である。受容の人、母性の人、無償の人、ひたすらに寄与の人である。そこに、大場のとどまることのない加虐、暴力があり、そこに無能の作家、得丸の横恋慕がある。大場が包丁を片手に、得丸の目の前で、故意に妻に性交を強いる。Mが悶える。得丸が呻く。大場が差し込む。Mがよがる。得丸がのたうつ。有能が抉る。Mが捩じる。無能が果てる。このポルノまがいの場面には、赤羽志茂、場末の小屋の、粗末な板張りの床、壁に囲まれた狭い部屋はうってつけの場所であり、一段の緊迫感、一層の臨場感を与えることに成功している。Mの、地味で控え目ながら、しっかりとした存在感が強い印象を残す。後で知ったことだが、実はMの芝居を見たのはこれがはじめてではなかったようなのである。2年ほど前に観劇した文学座のアトリエ公演「こわれかけたバランス」に出演していたのである。全く気がつかなかった。それほどの、その存在にすら気がつかないほどの、端役の端役、豆粒ほどの役だったようである。しかも、Mの文学座における舞台の仕事は、この3,4年間で、この役だけなのである。驚くべきことである。不条理ともいうべき話である。
芝居が終る。小屋の外で大場が待つ。小雨が続く。外の受付に緊張の面持ちの得丸がいる。「芸達者が多いね」と声をかける。ほっとした得丸が「中で…」という。ふたたび小屋に入る。「後輩の松本です。」と演出の松本裕子が挨拶をする。なにか言いたい。なにか言うべきだと考えるが、言葉が出ない。黙礼する。非礼だとは知っているがどうにも仕方がない。松本裕子とは、これまでに3,4回会っている。その都度、当人だと分からない。その都度、別人のように私には見える。ただ後輩だと言ってくれたことは、とても嬉しい。いままで、高校時代のバスケットボール部の後輩以外にそんなことを言われたことがないから。大場が車で送ってくれる。彼は吉祥寺、私は荻窪である。車中、色々と芝居の感想を述べる。先ず、Oを絶賛する。Mを相当に出来る人だと評価する。各役者を賞める。得丸も賞める。大場にはダメを出す。「そうですか」と不満げな大場。賞め言葉は二人のコンビでいい芝居をつくるまでのお預けである。(注、今年12月大場主演「冬物語」)
11月中旬(注、昨年の)文学座映放部三上氏より、OMと会う手筈を整えたとの電話が入る。(女性たちのシェイクスピア)「ヴェ二スの商人」の出演を申込んで3日後の異例の早さである。(注、通常7日~10日後)文学座新館3F応接室。午後1時。まずOと会う。当然シャイロックである。話は順調に進んで決定をみる。そしてMの、小柄、質素、地味、作家の妻の登場となる。力量のある人である。その確かな存在感には忘れがたいものがある。しかし、忍従、隷従、39才、被虐の人を「ヴェニスの商人」に見出すのは、なかなか困難なことである。私はMの役を決めかねていた。決めようにも、どうしても決められないでいた。決められないままにMと会う日取りが決まり、その時が今訪れたのである。応接のドアが開く。大柄な、りっぱな体格の元気のいい人が、賑やかに入ってくる。まるで別人である。ドアの向うの事務所には、南海の島々が展開するのではないかと錯覚するほどの底抜けの陽気さである。ここには、赤羽志茂でみた暗い作家の妻の面影は微塵もない。当惑する心を尻目に、もう一つの心が機敏に働いて、咄嗟に「じゃあ、おれは道化役といこう」のバッサーニオの友人グラシアーノでいこうと決心する。そして、明朗活発な作家の妻の承諾を得る。
313日(注、今年の…)430分、いよいよ、OMが中野区新井1-35-14、元硝子屋改造の貧相な稽古場(注、かつてのポーシャ邸)に初の御目見得をする。気がつくとOMは、狭い室内の中央に椅子を二つ据えて、どっしりと腰を下ろしている。ポーシャ邸の占拠である。役者達が2人を遠巻きにする。圧倒的な存在感である。「通りすぎましたか」と雑談を交わすことで平静を保とうとする私。「通りすぎました。」と O。「白亜の殿堂だと思ったでしょう」と固い冗談の私。「思いました。」とO
朗読が始まる。「人肉裁判」の場からである。「いきなりそこからですか」と笑顔のO。「いきなりそこからです」と落ち着いてきた私。在籍10年のKが、アントーニオ、ネリッサ、公爵の代役を務める。Kもまた「猿」(秋之桜子作、松本裕子演出)の酒場のマダムOと、作家の妻Mを赤羽志茂で見ている。短身度胸、全身愛嬌に緊張感が走るのがありありと分かる。Kはいま、OMを相手にシェイクスピアシアターを代表しての、その十年の結晶としての第一声を発するのである。「Kよ、まあ落着け」と内心で声をかける私は、同時に私にも声をかけているのである。
「私の意向はすでに公爵の申し上げたとおりです。
私どもの聖安息日にかけて誓いましたことゆえ、
証文どおりの抵当をちょうだいしたいと思います。」(小田島雄志訳)
Oが語る台詞を耳にしたときの、はるかに赤羽を超え、志茂を超え、ここ中野区新井薬師、薬師前整骨院前の「クルミの殻」(注、ハムレットの台詞)と呼ばれる元硝子屋の一室は、「無限の宇宙」(注、やはりハムレット)と化する。支配するのは、勿論、Oその人である。Oの素早い、自在な、柔軟な台詞廻しについては前述の通りである。私は、40年の時を経て、江守徹が女役者に化け、目の前に現れたのではないかという錯覚に一瞬襲われる。朗読が、進む。Oはさらに、60数年の時を遡り、私の幼児、「加藤清正」の、「山中鹿之助」の物語に憑いて、うっとりと調子のいい語り口を見せる母の横顔に、また、「阿波之徳島十郎兵衛」の子殺し、「葛の葉(信太の森)」の子別れに憑いて、悲しい人情話を声色まじりに切々と語る祖母の暖かい懐の中にと辿りつく。すべては、添い寝の物語である。(注、祖母の父は備前岡山勝山の地で、旅籠屋を営む傍ら、歌舞伎の興業元のようなこともやっていた。運悪く、事業が失敗する。祖母は母と別れ、父とともに島根半島の僻村に逃れると、そこに隠れ住んだのである。)そして、尚もOは、時の逆行を続ける。明治を超え、江戸を超え、室町、…、奈良、…、民俗学者折口信夫が「古代演劇論」に描いた日本芸能史の古層にまで行きつくように思われる…。もちろん私の身勝手な想像である。一人よがりの思い込みである。その妄想をもう少し話してみる。赤羽志茂は、あくまでも「新劇」という芝居の枠内での話である。ここ、新井薬師整骨院前の稽古場では、それとは全く別種の、シェイクスピアのお芝居の話である。おそらく「新劇」では、潜在するOの芸能的古層が、シェイクスピアに誘発されて、はじめて顕在したというのが、私の邪説()である。
 朗読に戻る。Kが第一声を発しようとするも果たせず、口籠る。珍現象である。気の毒である。同情しきりである。しかし、流石はK、そこでぐっと踏み止まると、右手を目立たぬ程度に静かに動かして、調子を整え、シェイクスピアシアター代表としての面目を保つ。(注、ゴクロウサン) F(ジェシカ)が代役の書記の長台詞において、病床(ビョウショウ)を病床(ビョウドコ)と誤読するも、この難局を見事に切り抜ける。気丈な新人である。すると、ドドーンと太鼓が鳴り渡る。太い、深いM(グラシアーノ)の声が、元硝子屋の窓を、床を、壁を振動させ、赤羽の地の、被虐の人、忍従の人、隷従の、盲従の人を粉々に砕いて吹き飛ばす。予想以上の強い声である。深い響きである。妄想がふたたび私を襲う。川が流れる。橋を渡る。鳥居を潜る。境内に遊び戯れる少年たちのかしましい歓声が聞こえる。生まれ故郷の村、サルダヒコノミコトを祭る加賀神社である。そして海の見える小高い岡のお寺、応海寺。そこにまた時の経つのも忘れて遊び興じる少年たち。跳ぶ。駆ける。打つ。捕る。組む。倒す。その無限の活力、喜び。日が暮れる。ドドーンと神社の太鼓が鳴る。ドドーンとお寺の太鼓が応える。少年たちの声も太鼓の音も一つに融け合って、神の山に、仏の森に消え、そこに住みついて、精霊になる。Mの声は、故里の神社の、お寺の境内に響く太鼓の音、精霊の声である。ようこそ39才のパック、私の少年期……。2時間後、朗読が終わると、OMは稽古場を後にする。旅芸人の姉妹が訪れた村里を去る態の風情である。
私の二人との運命的な出会いの物語はここで終る。しかし、出会いは単なる出発にすぎない。「ヴェニスの商人」の旅が幸運に恵まれることを祈りたい。
OMに捧げるシェイクスピアの言葉。
「みすぼらしい鉛よ。(中略)おまえの
飾らぬ姿が雄弁以上におれの心を揺り動かす。
私はこれを選びます、どうかうまくいきますように!」
(「ヴェニスの商人」鉛の箱を選ぶバッサーニオの台詞)(小田島雄志訳)

2012年3月18日日曜日

シャイロック登場

二人の女優との出会いは、運命的なものである。出会うべくして出会うことになった必然の出会いである。二人の女優とは、文学座の中堅に位置する、O(シャイロック)と M(グラシアーノ)のことである。
昨年の夏、薄暮の頃、私は南北線赤羽志茂駅に降立つと、小雨の降る中を得丸伸二(注、文学座)宅改造の稽古場スタジオTBを探し求めて、人通りのない、暗い寂しい駅周辺の道を右往左往した。コンビニの女性店員は全く知らないという。通りがかりの二人の主婦は、私の予測とは反対の方角を指す。時間が迫る。雨が降る。傘がない。暗がりで地図をみる視力を持たない。このまま帰ろうかと思う。それでは悪いと思う。一軒の古着屋の前に来る。先祖代々、古色蒼然の風情を漂わす店である。ここだと思う。ガラス戸をあけて中に入る。老人が一人、古びた椅子に座って店番をしている。「スタジオTBは」と聞くと 、「TBSはすぐそこを右に入るのだ」と親切に教えてくれる。暗い露路である。裸電球のなかに数人の男女が動いているのが見える。小走りに通りすぎてしまいたくなるような心細さを与える場所である。傘をさした、心配そうな、人待ち顔の長身の男が、暗がりのかなたを窺がっている姿が次第に鮮明度を増してくる。大場泰正(注、文学座)である。今日、私は、これから、ここスタジオTBで彼の招待により、秋之桜子作、松本裕子演出の「猿」を見るのである。
スタジオに入る。客席30人くらいの安晋請の小空間である。最前列に坐る。と言ってもどこに坐っても最前列と言えるぐらいの狭さである。どこか、なぜか共感を覚える雰囲気である。45年ほど前、文学座研究生1年だった頃、ここから少しばかりいった所にある整骨院に、私は間借りしていた。酒を飲んで寝るだけのなんの希望もない暗い26才の青春であった。この場末(注、ゴメン)の質素な小劇場に漂う寂しげな空気が、ひと時、私をノスタルジーに誘ったのである。
芝居が始まる。戦前の話である、一軒の酒場を舞台に、そこに出入りする有能の作家、無能の作家、作家志望の青年、出版社の男、新聞社の男、酒場のマダム、そこに住む若い狂女、有能の作家の妻の、男女間の縺れを執拗に、入念に描写した作品である。そこに少しの弛み、隙がない。相当な筆力である。十分な修練の蓄積を感じさせるすぐれた出来映えである。それにも拘らず、私が少しばかり残念に思ったのは、男とはこんなもの、女とはこんなもの、男女関係はこんなものと、作者が、あらかじめ決めてかかっているところがあって、その分だけ、作品に通俗性を与えているように思われることである。まことに、僭越な感想だとは思う。しかし、私がこの女流に心より願いたいのは、さらに修練を重ねられ、そこを乗り越えて、より鋭く、より深く、人間を見つめた本格的な作品を書き上げて欲しいということである。舞台は素晴らしい出来である。松本裕子の演出が細部にいたるまで冴えわたる。役者達もいい。鋭い情念を、狭い家屋の壁に、床に叩きつける。舌を巻く。目を凝らす。耳を立てる。得丸が意外に踏ん張る。大場がしつこく責め立てる。得丸も大場も、私の芝居に客演した時よりもずっと出来がいい。(注、コノヤロウ!)「美しきものの伝説」に出演していた若い二人の役者もまるで見違えるように生気がある。そして、そこで、私は二人の女優OMに運命的な出会いをしたのである。
先ずOが、赤羽志茂の、人影とてない、うら寂しい裏通りの貧相なスタジオTBに和服姿で登場する。瞳の奥に狂気を滲ませる美しい人である。たちまち目を奪う。耳を捕らえる。心を盗む。私は完璧にOの虜因である。Oは有能な作家(注、大場泰正)と服毒自殺を図るも未遂に終わる酒場のマダムの孤独を、悲哀を、絶望を、実に適確な、実に素早い、実に柔軟な台詞廻し、所作、身のこなしによって、実に見事に、実に余すところなく描出したのである。私の驚きが、いかばかりのものであったか、私の貧乏な言葉の能力ではとうてい伝えることはできない。私の驚きは、同時に私の魂のおののきである。それがどこから訪れるものなのか、何に原因するものなのか、それを知るためには、私は、私の心的な領域の奥の奥、底の底のほうにまで降りていくしかないと思われる。それでもなお、どうすることもなく引き込まれるOの魔力について語ろうとすれば、Oは、美しいデカダンスそのものなのである。Oは、文学座に20年もの歳月にわたって在籍する中堅の女優である。Oの才能、力量は、文学座のトップレベルにある女優たちに伍するほどの、否、それを凌ぐほどのものであると私は断言する。しかも、Oの素早い、柔軟な、自在に変化する台詞廻し、所作、身のこなしは、杉村春子の直系に属するものであり、全盛期の江守徹においてのみ見られた性質のものである。当然、文学座の中心にいて活躍してもいいはずの女優だと私には思われる。そのOが、いま、ところは、赤羽志茂、場末のうら寂れた小屋(注、ゴメンナサイ、トクマルクン)に現れて、美しい和服姿のデカダンスをわずか20数名の客に、渾身の力をこめて披露しているのである。もし、私がOを知らずに自分の演劇生涯を閉じるとしたら、私には悔やんでも、悔やみきれないほどの大きな損失、深い痛手であったろうに思われる。この奇跡的な出会いを用意してくれた大場泰正に感謝する。また、この芝居「猿」の制作を担当した得丸伸二にも、同様に感謝する。なぜなら、Oの配役は、得丸によるものだからである。大場よ!得丸よ!君たちの私に対する演技的貢献度は、このことの、Oとの出会いを用意してくれたことの大きさに比べれば、まだ一寸法師程度の規模にすぎない。(注、ガンバロウゼ、オタガイ!)
私はその頃、すでに「女性たちのシェイクスピア」の上演についてあれこれと考えを巡らせていた。あとはただ、この新しい試みにエイッと飛び込む度胸だけの問題であった。Oの魔力に引き込まれ、息をのみ、つばを飲み込みながら、私は、Oによる、マクベス、マクベス夫人、リア、マルヴォーリオ、リチャード3世、シャイロックを夢想、妄想した。
再び芝居にも戻る。Mが登場する。失神する。床に落ちる。木片のように、小石のように、落下する。有機から、無機への一瞬の変化にMの並々ならぬ才能を見る。
To Be Continued