2012年2月27日月曜日

耳で見るⅢ

 午前1140分。第二問(ポーシャの裁判の場における慈悲と権力との関係についての美しい台詞)がはじまる。その前に私のシェイクスピア講話を一席。
「女性たちよ。いうまでもなくシェイクスピアは言葉である。言葉の海である。生命の誕生は、太古の海、原古の海にある。シェイクスピアの言葉は、その海に誕生した生命が、はるか彼方の過去のそのまた過去より、現在を経て、はるか彼方の未来のそのまた未来に至るまで永遠に生き続けるだろう、その様相を、その軌跡を豊穣に有しているのである。そしてその詩的リズムを支配するのは生命のリズムであり、その始原は海のリズム、波のリズムにあると考えられる。
 羊水は生命誕生の太古の海と同じ成分だと「胎児の世界」の著書三木成夫(解剖学者)は言っている。とすると、女性はその体内に太古の海を有し、太古の海を生き、その呼吸、その心拍、鼓動、その血流は、海のリズム、波のリズムに深く影響を受けていることになる。母は海の化身だと三木成夫は言い切っている。従って、海のリズム、波のリズムを生きる女性は、シェイクスピアの言葉を生き、言葉の海を泳ぎ渡る潜在的な能力を十分に豊かに秘していることになる。
 女性たちよ。シェイクスピアの演技の基本、鉄則は、この生命のリズム、海のリズム、波のリズムを全身全霊をもって表現するために存在する。以下の4項目がそれである。
1.まず声である。声は腹に宿る。内臓に宿る。
2.文脈である。文脈は生命のリズム、海のリズム、波のリズムを生きる。
3.どうでもいいけど気持、心である。  (注)この(1.2.3)は優先順位を表わす。
初心者はこの「どうでもいいけど」の留保によく注意する必要がある。本当にどうでもいいと思ってしまうのだ。
 さて、((3)どうでもいいけど気持、心である)、から(どうでもいいけど)を省略し、
(3)(1)に置き換える。すると、気持優先、心優先のあまり、そこに現れるのは喉を絞めつける声、胸をえぐる声、聞き苦しい、耳を覆いたくなるような雑音の襲来となる。言葉の海は嵐に見舞われる。文脈は乱れに乱れて、ただの孤立した単語の散乱と化してしまうのである。(1),(2),(3)は全てを破壊され、すべてを失い、見る影もない無残な姿を晒すことになるのである。従って()に示しておいたように、(1),(2),(3)はあくまで優先順位なのであって、そのことがどうしても必要だというのが、私の動かない立場なのである。
 ここで、事態を分かり易くするために(1),(2)を音楽、歌における音取りと考えてみる。マリア・カラスはオペラを実際に上演するまでに、ピアノによる音取りを一カ月以上も繰り返したと言われる。そしてその後にカラスは歌いはじめる。次第に心を、気持を込めてうたいはじめる。それが(3)なのである。あるいは、(1),(2)を画家のデッサンと考えてもよい。その上に画家は色を、絵具を塗り上げていく。それが(3)である。完成した一枚の絵からはデッサンは消えている。しかし、それは姿を消したのではなく、絵具の下にあって静かに息を潜めているのである。また、((1)声),(2)文脈)を血管と考えることも出来る。しっかりとたしかな血管を作り上げ、そこに((3)気持、心)すなわち血を流すのである。つまり、(3)において、(どうでもいいけど)と留保をつけたのは、あくまでも(1),(2),(3)の優先順位を守るためであり、((1)声),(2)文脈),(3)気持、心)を破壊から救うためなのである。
 女性たちよ、最後に、4.からだである。あなたたちが時間をかけ、資本を投入して、鍛えあげているからだである。からだなくして(1),(2),(3)は存在しない。からだは木である、竹である。風と遊べよ。風と戯れよ。風にしなれ、たおやかに!そして、シェイクスピアの言葉を思う存分自由に語れ」
講話終了。ここで上記に関連する参考文を掲げる。あのKが「シアター通信」に寄稿した文章である。
「先生の身体は非常に無駄のないすっきりとした線で出来ており、しっかりとした芯が一本通っております。その身体は、これまで先生がいかにシェイクスピアの言葉と格闘してきたか、その歴史を物語っています。
 どれほどの情熱を込めても、決して乱れることのない独自のセリフ術を細部に渡るまで貫き、それでやっとシェイクスピアという偉大な作品の何かに辿り着けるかどうかだと、先生はいいます。(以下省略)」
はて、それは一体誰のことじゃいと言われている当の本人が首をかしげてあたりを見まわすような内容の一文である。私さえ知らない私の心の動きを熟知していると豪語するKに思わず誘いこまれ、つりこまれ、説得されそうになるが、ここは踏みとどまって、もう一度あたりを見まわすのが賢明というものである。うっかり乗せられれば、これからの私の肉体訓練は過酷を極めることになる。それはどうかご容赦を~。
 さあ、お待たせしました。いよいよポーシャの登場です。東西南北、福岡、大阪、名古屋、長野、富山、神奈川、東京、茨城、秋田、北海道、…、日本各地の市町村より、海を越え、川を渡り、空を飛び、オール、フィメールプロダクションもなんのその、オールキャスト全員女性をものともせず、われはポーシャ、われこそポーシャと、ベルモントを、ポーシャの邸を目指して押し寄せる。
 あれは薬師寺、これはファミリーマート、そのまた隣りが整体院、その目の前がポーシャのお宿と携帯ナビ片手に、ウロウロ、キョロキョロ、迷いに迷う迷い道。お宿はこちら、お泊まりはこちらとキャッチまがいの背広男に誘われて入る小道は地獄道……を花道と踏み変えて、ここが一番、勝負とて、ポーシャ娘がはるばると福岡の地より現れる。
 写真=本人。清潔感にあふれる美しい乙女である。目の言うことだけを聞きたい、耳は切り捨ててしまいたいと思わせるものが、この筑紫の国の乙女にはどこかある。朗読がはじまる。幼い、少しばかりおどおどとした読みかたである。必死に自分を立て直しながら、台詞を先に進めていく。ますます耳を切り捨ててしまいたい、削ぎ落したいという気持ちが募る。履歴書を読む。特技、浄瑠璃語り、仮名手本忠臣蔵を7段目まで一人語りが出来ると記されている。尊敬する人、ロビン・ウィリアムス、のすぐ後に豊竹吹甫太夫。好きな本、宮本武蔵(注、僕も中学生の時夢中になって読みましたよ!!)本人(=写真)を見る。履歴書を見る。その落差に、その距離感に、そのアンバランスに目も眩むほどの驚きを覚える。恐るべき、否、頼もしい乙女である。だが、喉の奥に声を置去りにしたまま朗読が終る。「なぜ腹を使わないのです。浄瑠璃も腹を使うでしょう。シェイクスピアも同じです。」と語る私は私とは全くの他人。別人である。乙女はとても悲しそうな顔になった。そして少しばかり涙ぐんだ。私も同じように悲しかった。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「ワタシハワルデス。ゴクドウデス、コユビヲキリオトシマス」と謝罪文を打電したいような気持に駆られた。
 続いて、大阪の女性が二人登場する。なぜか二人とも不調である。固い。活性、弾性を欠く。体格はいい。下肢、上肢ともにしっかりしている。安定した腰つきである。しかし言葉は流動感を失い、文脈は停滞気味である。女性たちの経歴からいっても、もう少し出来てもいいように思われる。この二人のポーシャ志望者になにか不具合が生じているのだ。そう思われる。その証拠に女性の一人は、自分の特技は大声が出ることだと履歴書に書いている。珍重すべき特技である。しかし、その大声の片鱗すらいまは聞こえてこないのである。
 ここで関西出身、20代後半の男性Nの登場が必要となる。彼はしばしばシェイクスピアシアターの芝居に客演する男で、Tと同じ大阪方面の某芸術大学の卒業生、Tの一年後輩にあたる。私はこの二人の日ごろの言動を考慮に入れて、某芸術大学を某芸人大学と呼ぶことにしている。TにもNにも芸術という言葉はちと重かろうと考えるからである。Nは、大学で狂言を学んだ。Nの腹はおおいに前方に迫り出している。いわゆる太鼓腹である。大学時代、コンビニでアルバイトをしているときに、深夜、売れ残りの弁当を大量に食べすぎたためである。そしてNは、その太鼓腹のおかげでよく響きわたる深い素晴らしい声を持っているのである。しかもNは、肥満、太鼓腹でありながら、実によく動くのである。驚くほど素早い動きを見せるのである。稽古場の床の上を大声を発しながら這いずりまわり、のたうちまわる姿はまさに、とど、そのもの、とどそれ自身、と言った様相を呈するのである。私は息を呑んだままNの動きを見つめ、人類始原の姿はこのようなものであったのだろうかと、はるかかなたの太古の時代に思いを馳せるのである。ところが、この人類の大過去、始原の生命を体現する男Nが、ある種の場面に遭遇すると、突然、声も出せず、動くことも出来ず、言わざる、動かざる、聞かざる(注、ダメ出しを)状態に陥ってしまい、とどの世界から三匹の猿の世界に退化、変身してしまうのである。Nはそこから脱け出そうと七転八倒、四苦八苦する。私も必死に手をかえ、品をかえて、ダメ出し続ける。しかしNはこの三匹の猿を深く溺愛して、容易に手放そうとしないのである。そこでとどのつまりは、誰かさんの(注、私のことです。)逆鱗に触れることになる。「芝居なんかやめてしまえ。」と私が罵しる。「やめます」とNが答える。「本当だな」と私が追及する。「本当です。やめます。」とNが覚悟を決めたように言う。「嘘つき野郎」と内心思いそれがますます私の怒りに火を注ぐ。「いつだ、いつだ」とNを責め立てる。「いまです」とNは言わない。(注、ありがとう!)「この公演が終ったらやめます。」助かった、救われたと思いながらも、なおも私はNを苛め抜く。「ほんとだな、嘘じゃないな、おれがいうのはここをやめろということじゃない。芝居をやめろということだ。芝居から足を洗えということだ。おまえなんか客の迷惑だ。何か他の仕事に就け。人生を台無しにするな。」……ありがたいことにNはいまも芝居を続けている。今度はまた何を血迷ったか声優を志し、某演劇研究所の試験を受けるという。心から成功を祈る!頑張ってください!
 ところで、なぜ前述のような手のつけられない醜態を私が演じる破目になったのか冷静に考えてみると、Nは足の爪の先から頭のてっぺんの髪の毛一本一本にいたるまで、関西の、上方の文化、言語圏の男なのである。Nの血も肉も骨もすべて上方の文化、言葉を生き、それに浸透され、それを呼吸しているのである。しかし、シェイクスピアの台詞にあるのは、標準語と呼ばれている日本語である。その内のある種の言葉の流れ、動きに出会うときにNは、とどから三匹の猿に退化、変身するものと考えられる。
 私は「シンベリン」の稽古の時、クロートンを演じていたNが、度々この猿に変身するのを見て、ある長台詞をすべて関西弁に変換して喋らせることにした。するとNは、立て板に水のごとく流暢に、水を得た魚のごとく生き生きと喋りまくり、動きまわったのである。稽古場に驚きの声が上がった。Nは、猿から一気にとどを超えて、N自身に、つまり人間そのものに進化、変身したのである。
 二人の大阪の女性には、気の毒な事をしたと思う。オーディションの課題(注、問1、問2)は当日手渡されたものである。準備する暇をあまり与えられずに朗読となる。東京、またはその近辺からの応募者はいいとして、関西からの女性たちには課題を前に渡し、一度、関西弁に変換して読む稽古をしてもらい、それからオーデションに臨んでもらうべきだったのではないかと考えている。いずれにしろ改良が必要である。
 午後230分頃「女性たちのシェイクスピア」オーディション第一日目が終る。いろいろな女性たちが登場し、いろいろなシェイクスピアが出現した。私の心に、もっとも強く印象づけられたのは、シェイクスピアの演技の基本、原則がいまだに確立されず、その共有もないという重い事実であった。女性たちの懸命に挑戦しようとする意欲にもかかわらず、シェイクスピアはますます混迷の度を深めているように思われる。私は女性たちのこの混乱するシェイクスピア群の中をただ((1)声)、((2)文脈)を頼りに、歩き続けた、目より耳を大切にして。

シェイクスピアの言葉(小田島雄志訳)
「暗い夜は人の目からその働きを奪いとる。
でもそのかわりに耳の働きを鋭敏にしてくれる。
見る力を取り上げておいて、そのぶんだけ
聞く力を二倍にしてくれるというわけ。
ライサンダー、あなたを見つけたのは目ではないのよ、
ありがたいことに耳があなたの声に導いてくれたのよ。」(「夏の夜の夢」ハーミア)