Mは有能の作家(注、大場)の小柄で、質素な妻であり、夫の虐待に対する忍従を、隷従を、盲従を、犠牲、献身を、細密画のように、実に正確に、実に緻密に描いて、太宰治の「ヴィヨンの妻」もどきの雰囲気を漂わせる。Mの構成力、集中力には相当程度の能力のあることを伺わせる出来栄えである。
有能作家、大場は、加虐の人であり、その妻Mは、被虐の人である。受容の人、母性の人、無償の人、ひたすらに寄与の人である。そこに、大場のとどまることのない加虐、暴力があり、そこに無能の作家、得丸の横恋慕がある。大場が包丁を片手に、得丸の目の前で、故意に妻に性交を強いる。Mが悶える。得丸が呻く。大場が差し込む。Mがよがる。得丸がのたうつ。有能が抉る。Mが捩じる。無能が果てる。このポルノまがいの場面には、赤羽志茂、場末の小屋の、粗末な板張りの床、壁に囲まれた狭い部屋はうってつけの場所であり、一段の緊迫感、一層の臨場感を与えることに成功している。Mの、地味で控え目ながら、しっかりとした存在感が強い印象を残す。後で知ったことだが、実はMの芝居を見たのはこれがはじめてではなかったようなのである。2年ほど前に観劇した文学座のアトリエ公演「こわれかけたバランス」に出演していたのである。全く気がつかなかった。それほどの、その存在にすら気がつかないほどの、端役の端役、豆粒ほどの役だったようである。しかも、Mの文学座における舞台の仕事は、この3,4年間で、この役だけなのである。驚くべきことである。不条理ともいうべき話である。
芝居が終る。小屋の外で大場が待つ。小雨が続く。外の受付に緊張の面持ちの得丸がいる。「芸達者が多いね」と声をかける。ほっとした得丸が「中で…」という。ふたたび小屋に入る。「後輩の松本です。」と演出の松本裕子が挨拶をする。なにか言いたい。なにか言うべきだと考えるが、言葉が出ない。黙礼する。非礼だとは知っているがどうにも仕方がない。松本裕子とは、これまでに3,4回会っている。その都度、当人だと分からない。その都度、別人のように私には見える。ただ後輩だと言ってくれたことは、とても嬉しい。いままで、高校時代のバスケットボール部の後輩以外にそんなことを言われたことがないから。大場が車で送ってくれる。彼は吉祥寺、私は荻窪である。車中、色々と芝居の感想を述べる。先ず、Oを絶賛する。Mを相当に出来る人だと評価する。各役者を賞める。得丸も賞める。大場にはダメを出す。「そうですか」と不満げな大場。賞め言葉は二人のコンビでいい芝居をつくるまでのお預けである。(注、今年12月大場主演「冬物語」)
11月中旬(注、昨年の)文学座映放部三上氏より、OとMと会う手筈を整えたとの電話が入る。(女性たちのシェイクスピア)「ヴェ二スの商人」の出演を申込んで3日後の異例の早さである。(注、通常7日~10日後)文学座新館3F応接室。午後1時。まずOと会う。当然シャイロックである。話は順調に進んで決定をみる。そしてMの、小柄、質素、地味、作家の妻の登場となる。力量のある人である。その確かな存在感には忘れがたいものがある。しかし、忍従、隷従、39才、被虐の人を「ヴェニスの商人」に見出すのは、なかなか困難なことである。私はMの役を決めかねていた。決めようにも、どうしても決められないでいた。決められないままにMと会う日取りが決まり、その時が今訪れたのである。応接のドアが開く。大柄な、りっぱな体格の元気のいい人が、賑やかに入ってくる。まるで別人である。ドアの向うの事務所には、南海の島々が展開するのではないかと錯覚するほどの底抜けの陽気さである。ここには、赤羽志茂でみた暗い作家の妻の面影は微塵もない。当惑する心を尻目に、もう一つの心が機敏に働いて、咄嗟に「じゃあ、おれは道化役といこう」のバッサーニオの友人グラシアーノでいこうと決心する。そして、明朗活発な作家の妻の承諾を得る。
3月13日(注、今年の…)4時30分、いよいよ、OとMが中野区新井1-35-14、元硝子屋改造の貧相な稽古場(注、かつてのポーシャ邸)に初の御目見得をする。気がつくとOとMは、狭い室内の中央に椅子を二つ据えて、どっしりと腰を下ろしている。ポーシャ邸の占拠である。役者達が2人を遠巻きにする。圧倒的な存在感である。「通りすぎましたか」と雑談を交わすことで平静を保とうとする私。「通りすぎました。」と O。「白亜の殿堂だと思ったでしょう」と固い冗談の私。「思いました。」とO。
朗読が始まる。「人肉裁判」の場からである。「いきなりそこからですか」と笑顔のO。「いきなりそこからです」と落ち着いてきた私。在籍10年のKが、アントーニオ、ネリッサ、公爵の代役を務める。Kもまた「猿」(秋之桜子作、松本裕子演出)の酒場のマダムOと、作家の妻Mを赤羽志茂で見ている。短身度胸、全身愛嬌に緊張感が走るのがありありと分かる。Kはいま、OとMを相手にシェイクスピアシアターを代表しての、その十年の結晶としての第一声を発するのである。「Kよ、まあ落着け」と内心で声をかける私は、同時に私にも声をかけているのである。
「私の意向はすでに公爵の申し上げたとおりです。
私どもの聖安息日にかけて誓いましたことゆえ、
証文どおりの抵当をちょうだいしたいと思います。」(小田島雄志訳)
とOが語る台詞を耳にしたときの、はるかに赤羽を超え、志茂を超え、ここ中野区新井薬師、薬師前整骨院前の「クルミの殻」(注、ハムレットの台詞)と呼ばれる元硝子屋の一室は、「無限の宇宙」(注、やはりハムレット)と化する。支配するのは、勿論、Oその人である。Oの素早い、自在な、柔軟な台詞廻しについては前述の通りである。私は、40年の時を経て、江守徹が女役者に化け、目の前に現れたのではないかという錯覚に一瞬襲われる。朗読が、進む。Oはさらに、60数年の時を遡り、私の幼児、「加藤清正」の、「山中鹿之助」の物語に憑いて、うっとりと調子のいい語り口を見せる母の横顔に、また、「阿波之徳島十郎兵衛」の子殺し、「葛の葉(信太の森)」の子別れに憑いて、悲しい人情話を声色まじりに切々と語る祖母の暖かい懐の中にと辿りつく。すべては、添い寝の物語である。(注、祖母の父は備前岡山勝山の地で、旅籠屋を営む傍ら、歌舞伎の興業元のようなこともやっていた。運悪く、事業が失敗する。祖母は母と別れ、父とともに島根半島の僻村に逃れると、そこに隠れ住んだのである。)そして、尚もOは、時の逆行を続ける。明治を超え、江戸を超え、室町、…、奈良、…、民俗学者折口信夫が「古代演劇論」に描いた日本芸能史の古層にまで行きつくように思われる…。もちろん私の身勝手な想像である。一人よがりの思い込みである。その妄想をもう少し話してみる。赤羽志茂は、あくまでも「新劇」という芝居の枠内での話である。ここ、新井薬師整骨院前の稽古場では、それとは全く別種の、シェイクスピアのお芝居の話である。おそらく「新劇」では、潜在するOの芸能的古層が、シェイクスピアに誘発されて、はじめて顕在したというのが、私の邪説(?)である。
とOが語る台詞を耳にしたときの、はるかに赤羽を超え、志茂を超え、ここ中野区新井薬師、薬師前整骨院前の「クルミの殻」(注、ハムレットの台詞)と呼ばれる元硝子屋の一室は、「無限の宇宙」(注、やはりハムレット)と化する。支配するのは、勿論、Oその人である。Oの素早い、自在な、柔軟な台詞廻しについては前述の通りである。私は、40年の時を経て、江守徹が女役者に化け、目の前に現れたのではないかという錯覚に一瞬襲われる。朗読が、進む。Oはさらに、60数年の時を遡り、私の幼児、「加藤清正」の、「山中鹿之助」の物語に憑いて、うっとりと調子のいい語り口を見せる母の横顔に、また、「阿波之徳島十郎兵衛」の子殺し、「葛の葉(信太の森)」の子別れに憑いて、悲しい人情話を声色まじりに切々と語る祖母の暖かい懐の中にと辿りつく。すべては、添い寝の物語である。(注、祖母の父は備前岡山勝山の地で、旅籠屋を営む傍ら、歌舞伎の興業元のようなこともやっていた。運悪く、事業が失敗する。祖母は母と別れ、父とともに島根半島の僻村に逃れると、そこに隠れ住んだのである。)そして、尚もOは、時の逆行を続ける。明治を超え、江戸を超え、室町、…、奈良、…、民俗学者折口信夫が「古代演劇論」に描いた日本芸能史の古層にまで行きつくように思われる…。もちろん私の身勝手な想像である。一人よがりの思い込みである。その妄想をもう少し話してみる。赤羽志茂は、あくまでも「新劇」という芝居の枠内での話である。ここ、新井薬師整骨院前の稽古場では、それとは全く別種の、シェイクスピアのお芝居の話である。おそらく「新劇」では、潜在するOの芸能的古層が、シェイクスピアに誘発されて、はじめて顕在したというのが、私の邪説(?)である。
朗読に戻る。Kが第一声を発しようとするも果たせず、口籠る。珍現象である。気の毒である。同情しきりである。しかし、流石はK、そこでぐっと踏み止まると、右手を目立たぬ程度に静かに動かして、調子を整え、シェイクスピアシアター代表としての面目を保つ。(注、ゴクロウサン) F(ジェシカ)が代役の書記の長台詞において、病床(ビョウショウ)を病床(ビョウドコ)と誤読するも、この難局を見事に切り抜ける。気丈な新人である。すると、ドドーンと太鼓が鳴り渡る。太い、深いM(グラシアーノ)の声が、元硝子屋の窓を、床を、壁を振動させ、赤羽の地の、被虐の人、忍従の人、隷従の、盲従の人を粉々に砕いて吹き飛ばす。予想以上の強い声である。深い響きである。妄想がふたたび私を襲う。川が流れる。橋を渡る。鳥居を潜る。境内に遊び戯れる少年たちのかしましい歓声が聞こえる。生まれ故郷の村、サルダヒコノミコトを祭る加賀神社である。そして海の見える小高い岡のお寺、応海寺。そこにまた時の経つのも忘れて遊び興じる少年たち。跳ぶ。駆ける。打つ。捕る。組む。倒す。その無限の活力、喜び。日が暮れる。ドドーンと神社の太鼓が鳴る。ドドーンとお寺の太鼓が応える。少年たちの声も太鼓の音も一つに融け合って、神の山に、仏の森に消え、そこに住みついて、精霊になる。Mの声は、故里の神社の、お寺の境内に響く太鼓の音、精霊の声である。ようこそ39才のパック、私の少年期……。2時間後、朗読が終わると、OとMは稽古場を後にする。旅芸人の姉妹が訪れた村里を去る態の風情である。
私の二人との運命的な出会いの物語はここで終る。しかし、出会いは単なる出発にすぎない。「ヴェニスの商人」の旅が幸運に恵まれることを祈りたい。
OとMに捧げるシェイクスピアの言葉。
「みすぼらしい鉛よ。(中略)おまえの
飾らぬ姿が雄弁以上におれの心を揺り動かす。
私はこれを選びます、どうかうまくいきますように!」
(「ヴェニスの商人」鉛の箱を選ぶバッサーニオの台詞)(小田島雄志訳)