2012年3月18日日曜日

シャイロック登場

二人の女優との出会いは、運命的なものである。出会うべくして出会うことになった必然の出会いである。二人の女優とは、文学座の中堅に位置する、O(シャイロック)と M(グラシアーノ)のことである。
昨年の夏、薄暮の頃、私は南北線赤羽志茂駅に降立つと、小雨の降る中を得丸伸二(注、文学座)宅改造の稽古場スタジオTBを探し求めて、人通りのない、暗い寂しい駅周辺の道を右往左往した。コンビニの女性店員は全く知らないという。通りがかりの二人の主婦は、私の予測とは反対の方角を指す。時間が迫る。雨が降る。傘がない。暗がりで地図をみる視力を持たない。このまま帰ろうかと思う。それでは悪いと思う。一軒の古着屋の前に来る。先祖代々、古色蒼然の風情を漂わす店である。ここだと思う。ガラス戸をあけて中に入る。老人が一人、古びた椅子に座って店番をしている。「スタジオTBは」と聞くと 、「TBSはすぐそこを右に入るのだ」と親切に教えてくれる。暗い露路である。裸電球のなかに数人の男女が動いているのが見える。小走りに通りすぎてしまいたくなるような心細さを与える場所である。傘をさした、心配そうな、人待ち顔の長身の男が、暗がりのかなたを窺がっている姿が次第に鮮明度を増してくる。大場泰正(注、文学座)である。今日、私は、これから、ここスタジオTBで彼の招待により、秋之桜子作、松本裕子演出の「猿」を見るのである。
スタジオに入る。客席30人くらいの安晋請の小空間である。最前列に坐る。と言ってもどこに坐っても最前列と言えるぐらいの狭さである。どこか、なぜか共感を覚える雰囲気である。45年ほど前、文学座研究生1年だった頃、ここから少しばかりいった所にある整骨院に、私は間借りしていた。酒を飲んで寝るだけのなんの希望もない暗い26才の青春であった。この場末(注、ゴメン)の質素な小劇場に漂う寂しげな空気が、ひと時、私をノスタルジーに誘ったのである。
芝居が始まる。戦前の話である、一軒の酒場を舞台に、そこに出入りする有能の作家、無能の作家、作家志望の青年、出版社の男、新聞社の男、酒場のマダム、そこに住む若い狂女、有能の作家の妻の、男女間の縺れを執拗に、入念に描写した作品である。そこに少しの弛み、隙がない。相当な筆力である。十分な修練の蓄積を感じさせるすぐれた出来映えである。それにも拘らず、私が少しばかり残念に思ったのは、男とはこんなもの、女とはこんなもの、男女関係はこんなものと、作者が、あらかじめ決めてかかっているところがあって、その分だけ、作品に通俗性を与えているように思われることである。まことに、僭越な感想だとは思う。しかし、私がこの女流に心より願いたいのは、さらに修練を重ねられ、そこを乗り越えて、より鋭く、より深く、人間を見つめた本格的な作品を書き上げて欲しいということである。舞台は素晴らしい出来である。松本裕子の演出が細部にいたるまで冴えわたる。役者達もいい。鋭い情念を、狭い家屋の壁に、床に叩きつける。舌を巻く。目を凝らす。耳を立てる。得丸が意外に踏ん張る。大場がしつこく責め立てる。得丸も大場も、私の芝居に客演した時よりもずっと出来がいい。(注、コノヤロウ!)「美しきものの伝説」に出演していた若い二人の役者もまるで見違えるように生気がある。そして、そこで、私は二人の女優OMに運命的な出会いをしたのである。
先ずOが、赤羽志茂の、人影とてない、うら寂しい裏通りの貧相なスタジオTBに和服姿で登場する。瞳の奥に狂気を滲ませる美しい人である。たちまち目を奪う。耳を捕らえる。心を盗む。私は完璧にOの虜因である。Oは有能な作家(注、大場泰正)と服毒自殺を図るも未遂に終わる酒場のマダムの孤独を、悲哀を、絶望を、実に適確な、実に素早い、実に柔軟な台詞廻し、所作、身のこなしによって、実に見事に、実に余すところなく描出したのである。私の驚きが、いかばかりのものであったか、私の貧乏な言葉の能力ではとうてい伝えることはできない。私の驚きは、同時に私の魂のおののきである。それがどこから訪れるものなのか、何に原因するものなのか、それを知るためには、私は、私の心的な領域の奥の奥、底の底のほうにまで降りていくしかないと思われる。それでもなお、どうすることもなく引き込まれるOの魔力について語ろうとすれば、Oは、美しいデカダンスそのものなのである。Oは、文学座に20年もの歳月にわたって在籍する中堅の女優である。Oの才能、力量は、文学座のトップレベルにある女優たちに伍するほどの、否、それを凌ぐほどのものであると私は断言する。しかも、Oの素早い、柔軟な、自在に変化する台詞廻し、所作、身のこなしは、杉村春子の直系に属するものであり、全盛期の江守徹においてのみ見られた性質のものである。当然、文学座の中心にいて活躍してもいいはずの女優だと私には思われる。そのOが、いま、ところは、赤羽志茂、場末のうら寂れた小屋(注、ゴメンナサイ、トクマルクン)に現れて、美しい和服姿のデカダンスをわずか20数名の客に、渾身の力をこめて披露しているのである。もし、私がOを知らずに自分の演劇生涯を閉じるとしたら、私には悔やんでも、悔やみきれないほどの大きな損失、深い痛手であったろうに思われる。この奇跡的な出会いを用意してくれた大場泰正に感謝する。また、この芝居「猿」の制作を担当した得丸伸二にも、同様に感謝する。なぜなら、Oの配役は、得丸によるものだからである。大場よ!得丸よ!君たちの私に対する演技的貢献度は、このことの、Oとの出会いを用意してくれたことの大きさに比べれば、まだ一寸法師程度の規模にすぎない。(注、ガンバロウゼ、オタガイ!)
私はその頃、すでに「女性たちのシェイクスピア」の上演についてあれこれと考えを巡らせていた。あとはただ、この新しい試みにエイッと飛び込む度胸だけの問題であった。Oの魔力に引き込まれ、息をのみ、つばを飲み込みながら、私は、Oによる、マクベス、マクベス夫人、リア、マルヴォーリオ、リチャード3世、シャイロックを夢想、妄想した。
再び芝居にも戻る。Mが登場する。失神する。床に落ちる。木片のように、小石のように、落下する。有機から、無機への一瞬の変化にMの並々ならぬ才能を見る。
To Be Continued