2012年4月1日日曜日

(女性たちのシェイクスピア)「ヴェニスの商人」の新人たち

S(ポーシャ)の場合
 ここで言うSとは、シェイクスピアシアタ―のS(ネリッサ)のことではない。ポーシャのSのことである。私がはじめてS(ポーシャ)を見たのは、昨年の7月初旬、文学座新館2Fの稽古場、研修生の有志による自主発表会に出かけた時である。演目は、村上春樹原作「海辺のカフカ」。室内に入って、入口側の急拵えの椅子席(注、約30席)の中央に腰を下ろすと、右側の壁の前に背広姿の女性が背筋をすらりと伸ばしてパイプ椅子に坐っているのが目に入る。目はそこに止まったままじっと動かなくなる。細面の美しい人である。長身の痩身である。清らかな空気が柔かくあたりを包んでいる。心が騒ぐのを覚える。理由は分からない。なにか大切なもの、貴重なもの、決して手離してはならないものと出会っているのだと心の奥の声が告げる。ヒッチコックの映画「めまい」の主人公ジェイムズ・スチュワートが美術館で一枚の絵に見入るキム・ノバクに心を奪われる場面を思い出す。(注、カッコヨスギカ?)私もまた、身じろぎもせず一心に前方を見つめて、未知の時間を呼吸しつつ端坐する人の美しい顔に目を奪われ、心を乱されて。どこに行きつくかもわからない未知の時間を、同じように呼吸している自分を見い出す。その人が誰かも知らない。その人の名前も分からない。発表会を見に来た人では決してない。客席に姿を見せたまま、舞台への登場を待っている出演者の姿勢かと見える。緊張の息づかいを静かに殺している気配がわずかに感じられる。なにがこうまで引き寄せるのか、なぜこうまで引き込まれるのか。静かなたたずまいのうちに多少の品格さえ備えて着座する若い女性。その人のすんなりとした白い手に紡がれ、繰り出されて、私の心の奥の、そのまた奥の根にしっかりと結びつき、絡みつき、ぐいぐいと手繰り寄せる見えない一本の糸の正体を、いま、この場で探り当てることは私にはとても難しいことのように感じられる。私は虚の世界に住む人間である。実に世界にはとてもそぐわない宿命に置かれているように感じながら、少年期を生き、青年期を生き、いまもそのように生き続けている。だらしない、仕方のない、役立たずの、厄介者の生き様である。その私が、私を引き寄せて止まないこの見えない白い糸の秘密を解き明かそうとすれば、この美しい横顔を見せて静かに端坐する若い女性を、逆に虚の世界に引きいれて、そこに共に生きるほかに術がないのではないかと思われる。切に一緒に仕事をしたいと願う。
 芝居が始まる。戦中、戦後、現代と各時代の傷ついた魂たちの漂流、邂逅、別離の物語が、性的言語を多用しながらSF風に展開される。その人が着坐の姿勢を崩す。いよいよ登場の時が訪れる。私の右前方に背広姿で立つその人は、すらりとした背丈の細面にわずかに少年の面影を宿すかに見える清潔な女性である。女性は難解な存在論的哲学用語を立て続けに早口で喋り続ける。女性はどうやら地方都市の図書館に勤める司書のようである。すると突然この司書が言い放つ言葉。「私、セックスする時は肛門を使うの」 この手のことには十分に慣れているはずの私の心に一瞬動揺が走る。どぎまぎしてうろたえる自分を不思議そうに見ているもう一人の自分がいる。恐らくそれは、この若い女性の清潔感と、「肛門」とのアンバランスな組合せから来るものだろうと思われる。動揺が鎮まると、奇妙なことに、私の心に一種の爽快感が残る。私はそれを嬉しさいっぱいの気持で受け容れている。「肛門」はこの若い女性の発語によって、浄化、浄清されることになったのではないかと考える自分をもう一人の自分がやや苦笑しながら眺めている。舞台ではそんなことにはお構いなしに司書による自己の存在についての哲学的分析が早口でひたすらに続けられている。司書は、心は男性でからだは女性の性同一性の人間である。心としての男性がからだとしての女性を拒否して肛門を使用してのセックスにおよぶのである。女性は、舞台上の位置を持続して少しも変えることはない。そのまますらりと立ち続けて、性同一性の自分の存在について懸命に語りかける。相手の、年上の同僚女性もまた、学生時代内ゲバで恋人を殺された暗い記憶を持つ。図書館の一室での、傷ついた二つ魂の出会う場面である。女性は決してうまいとはいえない。むしろ、多分に、生硬さを残す演技である。それにも拘わらず、あまりの早口、あまりの難解な用語の故に、時々痞えながら語り続ける台詞の背後に、なにかが呼ぶ声を聞く。なにかが招く手を見る。幻聴である。幻視である。しかし虚の世界の住人にとっては、それが実の声、実の手なのである。虚の住人は、また、思い込み、思い違いの人でもある。私の墓碑銘はすでに決まっている。「マルヴォーリオよ、安らかに眠れ!」(注、「十二夜」取り違いの大名人)である。これまで私は、決して思い込みではない、思い違いではないと確信しながらも、何度も思い違え、取り違えを繰り返してきた。私の個人史は、思い込みの連続史であり、思い違いの多量に陳列される宝物殿である。しかし、これはいままでとは違う、これはそういうことではないと思う心がすでに思い込みであることを知りながらも、その危険に勇んで身を投じるのが虚の住人の特権的特技というものである。
 舞台が終る。有望な新人たちの、実に新鮮な感覚に彩られた、実に刺激的な舞台であった。「海辺のカフカ」が村上春樹の作品の中でどのような位置を占めるのか、いまの私には分からない。もうずいぶん彼の作品を手にすることがなくなっているからである。「ノルウェーの森」を夢中になって読み、その後2、3冊読んだところで、村上作品との私の交流は終わっている。たしかに、新人たちの舞台は未熟であり、未完成であった。纏まりのつかない箇所も多く見られた。しかしそれにも拘らず、私がこの舞台を高く評価するのは、これほどまでに傷つき果てた魂たちの時空を超えて漂流する物語を、文学座のアトリエ公演、本公演に見ることは極めて稀なためである。それだけではない。新人たちの見せる演技は司書も含めて、村上春樹の深い挫折感の言葉を自分の言葉として、自分のからだを通して発せようとする必死の姿勢に貫かれており、それが、生々しい存在感を見るものに与えているのである。その演技は新人たちが卒業公演で、研修生発表会で見せたものとは全く異質の、つくりものではない、現実に生きる自分と舞台に生きる自分との関係を探し続け、求め続けるところから生まれる演技というものの真の姿を示す、秀れた性質を有するものであった。
 芝居の数日後、私は端坐の人がSであること、研修生2年であることを知る。ともに虚の世界に生きるにはまだ半年以上もあることになる。(注、卒業するまでは原則として外部出演禁止) 二度目に私がSを見たのは、今年の1月21日(土)午後6時30分、文学座アトリエ、研修生の卒業公演の時である。演目はイギリスの作家の芝居で「OUR  COUNTRY`S GOOD―われらが祖国のために―」(演出松本裕子)である。研修生2年の人たちはこれが最後の発表会であり、これによって最終的に準座員として文学座に残るかどうかが決まる大切な公演である。
 あの日、昨年の七月初旬、一心に前方を見つめ、未知の時間を呼吸しつつ静かに着坐していた清らかな性同一性の司書は、ここでは暴力的な荒くれものの女囚に変貌して登場する。「男が好きなのは女のオ××コだけよ」とSが喚めいても、「オ××コ」、「オ××コ」と連発しても私には少しの動揺もない。まごつきも、うろたえもない。なにか遠い風景のようにそれを見ている平静な自分がいるだけである。なぜなら、私にとってのSとは、芝居以前のS、「海辺のカフカ」の登場を端然と待ち続けるS、その時のSの手から送り届けられた一本の白い糸だけがSと私の縁(注、えにし)の明かしだからである。
 芝居が終る。アトリエの外に出て、私は同じ舞台に出ていた知人のKを待つ。するとSが私のすぐ横を早足に通りすぎて、卒業公演を見に来てくれた友人たちのほうに向かっていく。風が立つ。心が騒ぐ。Kが出てくる。3/4は賞める。1/4はいまひとつと伝える。Kが感謝と別れの挨拶を告げる。Sの姿はもう見えない。アトリエを後にする。帰路に着く。道々、卒業公演について考える。素晴らしい演技を見せる新人女性が一人いた。群を抜いて際立っていたと思う。声も身体も、時に力強く、大胆に、時に微妙に、繊細に、自在に変化して豊かな演技を舞台上に十二分に発揮していた。その女性だけが翻訳劇の領域を越えて、自分を表現していた。SKも、その後に続いて標準以上の出来映えを示していたと私は思う。(注、後日、三人とも準座員に昇格しなかったことを知り、ショックを受ける)
 卒業公演後すぐに文学座映放部の三上氏にSの出演の申し込みをする。その旨伝えるが、まだ準座員に昇格するかどうか分からないので、責任を持てないとの返事を得る。一応文学座を通すのが筋と考えて、Sへの直接の連絡はとらないことにする。待つ。待ち続ける。何事もない。一月程たったところで三上氏に連絡を入れる。Sは関心を持っているという。よかったと思う。ほっと安心もする。しかし祖父の病気の看護で岡山に(注、本当は倉敷でした)に帰っている、いつ会えるか分からないと三上氏。ポーシャをお願いしますと告げる。そしてまた待つ。一週間待ち続ける。待ち切れなくなったところで電話を入れる。お委せしますとSから回答がありました、と三上氏の声が明るい。
 3月上旬、薬師前整骨院前の稽古場(注、ポーシャ邸)にいよいよポーシャのSが登場する。
To Be Continued