2012年2月29日水曜日

俳優座劇場にいく!

      212日オーディション2日目。
 午前915分全員集合する。但しSは前日より5分遅れの定刻5分前、Kは定刻30秒前の、はらはらどきどきさせる到着である。ここで言い忘れてはならないのは、写真家のO氏のことである。O氏は2年ほど前より、シェイクスピアシアターの舞台写真、稽古風景を撮り続けてくれている、しかも無償で。 O氏の熱意、執念は、いま私たちが失いつつあるなにか大切なもの、貴重なもの、尊いものを教えてくれるように思われる。それこそ、シェイクスピアシアターにとっては、あのポーシャの慈悲、天より降りきたっておのずから大地をうるおす恵みの雨のようなものなのである。ただO氏のいけないところは、被写体に私を選ぶ回数がとても多いことである。稽古場でも劇場でも、ふと気がつくとO氏がドアに隠れ、壁に潜み、椅子に沈み、幕に紛れて私をじっと監視しているのである。私はぶるるんと震えて身を縮め固くなる。どうも自然ではいられなくなるのである。いつだったか、O氏は、稽古場で私の背後から演技上の諸注意を受けている若い女性の姿を写真に収めたことがあった。その時、どうしたわけか、私は常用のソフト帽を傍の机の上に置いていた。不覚である。出来上がった写真の前景には、毛髪を失って、地肌の見える寂しげな私の後頭部があり、その向こう側には、真剣な眼差しで私の注意を食い入るように聞く女性がいた。私はぐさっと急所を刺されたような思いであった。まざまざと己の正体を知らされた気持であった。それ以来、私は自宅以外では絶対にソフト帽を頭から取らないことにし、O氏も絶対に私の後頭部を狙わないことになっている。
 今日(212)もO氏は前日同様、930分ごろに姿を見せると、先ず、ファミリーマートのそのまた隣りの整骨院(注、前回整体院は誤り)の目の前の路上をうろうろ徘徊する背広姿のTとHを注視、二人に誘われて通称ポーシャの小道と呼ばれている路地を急ぐ女性たちの後を追いかける。午前10時オーディション開始とともに、O氏はそっと稽古場に忍び入ると、狭い部屋の壁に岩場の小魚のように張りついて、ポーシャ化しようとする女性たちの生態を撮って、撮って、撮りまくる。私の背後は壁である。後ろに回られる心配はない。私はオーディションに集中する。女性たちの顔を見る。写真を見る。そしてもっとも大切な仕事、女性たちの声に耳を傾ける。
 さて、ここからは第一日のように順を追って話を進めていくのではなく、強い印象を受けた応募者たち、深く考えさせられた事柄等を中心に第二日の様子を報告することにする。
1、Mの場合。Mは大女である。しかも実によく引き締まった肉体の持ち主である。肩幅は広い・胸板厚い・四肢五体・五臓六腑、どこをとっても健康でないところはないと納得させる頑丈な体格である。身の丈、165センチ以上はある。力仕事をする労働者のからだをしている。履歴書を見る。某私立大学考古学科卒とある。縄文期、あるいは弥生期の昔々大昔の古い泥土(注、ドロツチと読みたい)を掘り返して、無上の喜びを感じている人たちの仲間である。しかし、Mには、シャベルで細かく土をいじるより、古層なる大地に向かって、鍬を大上段から振り下ろすほうが似合っているように思われる。実物を見る。実物だけで十分、写真は不要である。一目で気に入る。入らないわけがない。強い親密感を覚える。私の生まれた島根半島の半農半漁の村にもこのようなMに似た(注、失礼!)大柄の頑丈な、逞しい女性たちが何人もいて、村の細い路地を海の臭い、野の臭いをぷんぷんさせながら、うろうろと歩きまわっていた。私もこのような男勝りの女性たちに混ざって一緒に「ホイキタ、ジョイ、ホイキタ、ジョイ」と掛け声をかけながら村の小さな湾内にぐるりと海面を取り囲むように打たれた鰯網を力一杯手繰り寄せたものである。中学生の頃だ。また村の女性たちは、糞尿を入れた二つも肥桶(注、こえだご)を天秤で担いで曲がりくねった急な坂道を小高い山の上にある畑まで運んでいく。私も同じようにやったことがある。ぽちゃっ、ぽちゃっ、と音を立てて襲いかかる糞尿の危険から身を守るためには、天秤のバランスを微妙に保たなくてはならない。しかし女性たちは、実に見事な足取りで軽々と肥桶を担いで、山の上の畑を目指して坂道を登っていくのである……。
このような60年近くも前の経験にMを見ながら思いを馳せるのは、大変失礼なことだと十分に承知しているが、率直に言ってやはりMの立派な体格は、故郷の村の働き者の女性たちを思い出させるのである。いい知れぬ親近感を抱かせるのである。私は、Mはいけると思った。使えると思った。Mの卒業した某大学は、国語、歴史を専門にする教師たちがよく出る学校である。私の高校にもそういう先生が、何人もいた。当時の私の印象では、地味な部類に入る大学であった。Mはその地味な大学のそのまた地味な考古学科の出身なのである。これで地味でなければ、いったい何が地味なのだと問いただしたいほどの地味さである。私はまた粘り強いにちがいないとも判断した。そう断定して間違いないと強く自分に言い聞かせた、何しろ縄文期の土と深く付き合っているのだから。そして、朗読の結果次第では、応募した女性たち全員が配役されることなど夢にも考えたことのない、また絶対に配役を拒否するだろうある役をやってもらおうと腹を決めていた。朗読を聞く。元気である。ただ元気である。ひたすら元気である。元気なだけである。元気しかない……。それでもいけると思う。いけるはずだと強引に自分を説き伏せる。私のMへの親密感は決して消えることはないのである。再度、履歴書を見る。学生時代、劇団「くろひげ」を設立したとある。名前がいい。これならポーシャ志望であるはずがない。ますます意を強くする。履歴書の先を読む。「六本木の俳優座劇場まで所要時間、約1時間15分」と記載されている。実に気の早い話である。すでにもう「ヴェニスの商人」の上演に参加しており、これから俳優座劇場に通うことになっているのである。それには先ず、オーディションに合格する必要があるのである。それには絶対に他の女性たちが拒否するだろう役を引き受けなければならないのである。
 話は20数年前に遡る。ある男(注、わが劇団の役者)はまだ相手の意思を十分に確かめてもしていないのに、数度一緒にコーヒーを飲んだだけでの交際で、結婚を思い立ち、思い込み、それが目の前に迫ったものと錯覚、幻覚し、都営住宅の抽選の列に加わり見事当たりクジを引いて、住宅を手に入れたが、相手の女性は「あっそうなの」と言うが早いか男の手を離れ、イギリス留学に旅立ってしまった。しかしこの男、この深い失意からなんとか立ち直り、なかなかの役者となっていまも活躍している。
ところで、この早とちりこそシェイクスピアを志す者の必須の条件だというのが私の意見である。そして、すでに俳優座劇場に通うことを決めているMにはその条件が十分に備わっていると考えられる。私もまた風呂に入る時、湯が沸く前に全裸になり、そこではじめて、まだ水風呂と知り、タオルを体に巻きつけて寒さをしのぎながら、半裸のまま部屋の中をぐるぐる徘徊することがしばしばあるのである。家の者の冷たい叱責を「シェイクスピアに携わる者は常にこうでなくてはならぬ。」とわけのわからぬ弁解をする。余談ながら、この日、Mよりももっと気の早い女性がいた。何を勘違いしたのか実際に六本木俳優座劇場に行ってしまったのである。「1時間ほど遅れます。すみません」との電話が、かの地よりあった…。
ところで、これには後日譚がある。実はMはめでたいのかどうかよく分からないが、オーディションに合格した。数日後、私はMに会って例の役の話をした。するとMは、「嬉しいです」とにこにことした表情で言ったのである。「ありがとう!」と私は、天にも登る気持ちになってMに感謝した。その役の名は、老ゴボー、シャイロックの召使い、ラーンスロットゴボーの父親である。
 Mのために、また実際に俳優座劇場に行ってしまったもう一人の女性のために、シェイクスピアの言葉を贈る。

「心に思う人殺しはまだ想像にすぎぬのに、それが
生身のこの五体をゆさぶり、思い浮かべるだけで
その働きは麻痺し、現実に存在しないものしか
存在しないように思われる。」(マクベス)(小田島雄志訳)



 

2012年2月27日月曜日

耳で見るⅢ

 午前1140分。第二問(ポーシャの裁判の場における慈悲と権力との関係についての美しい台詞)がはじまる。その前に私のシェイクスピア講話を一席。
「女性たちよ。いうまでもなくシェイクスピアは言葉である。言葉の海である。生命の誕生は、太古の海、原古の海にある。シェイクスピアの言葉は、その海に誕生した生命が、はるか彼方の過去のそのまた過去より、現在を経て、はるか彼方の未来のそのまた未来に至るまで永遠に生き続けるだろう、その様相を、その軌跡を豊穣に有しているのである。そしてその詩的リズムを支配するのは生命のリズムであり、その始原は海のリズム、波のリズムにあると考えられる。
 羊水は生命誕生の太古の海と同じ成分だと「胎児の世界」の著書三木成夫(解剖学者)は言っている。とすると、女性はその体内に太古の海を有し、太古の海を生き、その呼吸、その心拍、鼓動、その血流は、海のリズム、波のリズムに深く影響を受けていることになる。母は海の化身だと三木成夫は言い切っている。従って、海のリズム、波のリズムを生きる女性は、シェイクスピアの言葉を生き、言葉の海を泳ぎ渡る潜在的な能力を十分に豊かに秘していることになる。
 女性たちよ。シェイクスピアの演技の基本、鉄則は、この生命のリズム、海のリズム、波のリズムを全身全霊をもって表現するために存在する。以下の4項目がそれである。
1.まず声である。声は腹に宿る。内臓に宿る。
2.文脈である。文脈は生命のリズム、海のリズム、波のリズムを生きる。
3.どうでもいいけど気持、心である。  (注)この(1.2.3)は優先順位を表わす。
初心者はこの「どうでもいいけど」の留保によく注意する必要がある。本当にどうでもいいと思ってしまうのだ。
 さて、((3)どうでもいいけど気持、心である)、から(どうでもいいけど)を省略し、
(3)(1)に置き換える。すると、気持優先、心優先のあまり、そこに現れるのは喉を絞めつける声、胸をえぐる声、聞き苦しい、耳を覆いたくなるような雑音の襲来となる。言葉の海は嵐に見舞われる。文脈は乱れに乱れて、ただの孤立した単語の散乱と化してしまうのである。(1),(2),(3)は全てを破壊され、すべてを失い、見る影もない無残な姿を晒すことになるのである。従って()に示しておいたように、(1),(2),(3)はあくまで優先順位なのであって、そのことがどうしても必要だというのが、私の動かない立場なのである。
 ここで、事態を分かり易くするために(1),(2)を音楽、歌における音取りと考えてみる。マリア・カラスはオペラを実際に上演するまでに、ピアノによる音取りを一カ月以上も繰り返したと言われる。そしてその後にカラスは歌いはじめる。次第に心を、気持を込めてうたいはじめる。それが(3)なのである。あるいは、(1),(2)を画家のデッサンと考えてもよい。その上に画家は色を、絵具を塗り上げていく。それが(3)である。完成した一枚の絵からはデッサンは消えている。しかし、それは姿を消したのではなく、絵具の下にあって静かに息を潜めているのである。また、((1)声),(2)文脈)を血管と考えることも出来る。しっかりとたしかな血管を作り上げ、そこに((3)気持、心)すなわち血を流すのである。つまり、(3)において、(どうでもいいけど)と留保をつけたのは、あくまでも(1),(2),(3)の優先順位を守るためであり、((1)声),(2)文脈),(3)気持、心)を破壊から救うためなのである。
 女性たちよ、最後に、4.からだである。あなたたちが時間をかけ、資本を投入して、鍛えあげているからだである。からだなくして(1),(2),(3)は存在しない。からだは木である、竹である。風と遊べよ。風と戯れよ。風にしなれ、たおやかに!そして、シェイクスピアの言葉を思う存分自由に語れ」
講話終了。ここで上記に関連する参考文を掲げる。あのKが「シアター通信」に寄稿した文章である。
「先生の身体は非常に無駄のないすっきりとした線で出来ており、しっかりとした芯が一本通っております。その身体は、これまで先生がいかにシェイクスピアの言葉と格闘してきたか、その歴史を物語っています。
 どれほどの情熱を込めても、決して乱れることのない独自のセリフ術を細部に渡るまで貫き、それでやっとシェイクスピアという偉大な作品の何かに辿り着けるかどうかだと、先生はいいます。(以下省略)」
はて、それは一体誰のことじゃいと言われている当の本人が首をかしげてあたりを見まわすような内容の一文である。私さえ知らない私の心の動きを熟知していると豪語するKに思わず誘いこまれ、つりこまれ、説得されそうになるが、ここは踏みとどまって、もう一度あたりを見まわすのが賢明というものである。うっかり乗せられれば、これからの私の肉体訓練は過酷を極めることになる。それはどうかご容赦を~。
 さあ、お待たせしました。いよいよポーシャの登場です。東西南北、福岡、大阪、名古屋、長野、富山、神奈川、東京、茨城、秋田、北海道、…、日本各地の市町村より、海を越え、川を渡り、空を飛び、オール、フィメールプロダクションもなんのその、オールキャスト全員女性をものともせず、われはポーシャ、われこそポーシャと、ベルモントを、ポーシャの邸を目指して押し寄せる。
 あれは薬師寺、これはファミリーマート、そのまた隣りが整体院、その目の前がポーシャのお宿と携帯ナビ片手に、ウロウロ、キョロキョロ、迷いに迷う迷い道。お宿はこちら、お泊まりはこちらとキャッチまがいの背広男に誘われて入る小道は地獄道……を花道と踏み変えて、ここが一番、勝負とて、ポーシャ娘がはるばると福岡の地より現れる。
 写真=本人。清潔感にあふれる美しい乙女である。目の言うことだけを聞きたい、耳は切り捨ててしまいたいと思わせるものが、この筑紫の国の乙女にはどこかある。朗読がはじまる。幼い、少しばかりおどおどとした読みかたである。必死に自分を立て直しながら、台詞を先に進めていく。ますます耳を切り捨ててしまいたい、削ぎ落したいという気持ちが募る。履歴書を読む。特技、浄瑠璃語り、仮名手本忠臣蔵を7段目まで一人語りが出来ると記されている。尊敬する人、ロビン・ウィリアムス、のすぐ後に豊竹吹甫太夫。好きな本、宮本武蔵(注、僕も中学生の時夢中になって読みましたよ!!)本人(=写真)を見る。履歴書を見る。その落差に、その距離感に、そのアンバランスに目も眩むほどの驚きを覚える。恐るべき、否、頼もしい乙女である。だが、喉の奥に声を置去りにしたまま朗読が終る。「なぜ腹を使わないのです。浄瑠璃も腹を使うでしょう。シェイクスピアも同じです。」と語る私は私とは全くの他人。別人である。乙女はとても悲しそうな顔になった。そして少しばかり涙ぐんだ。私も同じように悲しかった。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「ワタシハワルデス。ゴクドウデス、コユビヲキリオトシマス」と謝罪文を打電したいような気持に駆られた。
 続いて、大阪の女性が二人登場する。なぜか二人とも不調である。固い。活性、弾性を欠く。体格はいい。下肢、上肢ともにしっかりしている。安定した腰つきである。しかし言葉は流動感を失い、文脈は停滞気味である。女性たちの経歴からいっても、もう少し出来てもいいように思われる。この二人のポーシャ志望者になにか不具合が生じているのだ。そう思われる。その証拠に女性の一人は、自分の特技は大声が出ることだと履歴書に書いている。珍重すべき特技である。しかし、その大声の片鱗すらいまは聞こえてこないのである。
 ここで関西出身、20代後半の男性Nの登場が必要となる。彼はしばしばシェイクスピアシアターの芝居に客演する男で、Tと同じ大阪方面の某芸術大学の卒業生、Tの一年後輩にあたる。私はこの二人の日ごろの言動を考慮に入れて、某芸術大学を某芸人大学と呼ぶことにしている。TにもNにも芸術という言葉はちと重かろうと考えるからである。Nは、大学で狂言を学んだ。Nの腹はおおいに前方に迫り出している。いわゆる太鼓腹である。大学時代、コンビニでアルバイトをしているときに、深夜、売れ残りの弁当を大量に食べすぎたためである。そしてNは、その太鼓腹のおかげでよく響きわたる深い素晴らしい声を持っているのである。しかもNは、肥満、太鼓腹でありながら、実によく動くのである。驚くほど素早い動きを見せるのである。稽古場の床の上を大声を発しながら這いずりまわり、のたうちまわる姿はまさに、とど、そのもの、とどそれ自身、と言った様相を呈するのである。私は息を呑んだままNの動きを見つめ、人類始原の姿はこのようなものであったのだろうかと、はるかかなたの太古の時代に思いを馳せるのである。ところが、この人類の大過去、始原の生命を体現する男Nが、ある種の場面に遭遇すると、突然、声も出せず、動くことも出来ず、言わざる、動かざる、聞かざる(注、ダメ出しを)状態に陥ってしまい、とどの世界から三匹の猿の世界に退化、変身してしまうのである。Nはそこから脱け出そうと七転八倒、四苦八苦する。私も必死に手をかえ、品をかえて、ダメ出し続ける。しかしNはこの三匹の猿を深く溺愛して、容易に手放そうとしないのである。そこでとどのつまりは、誰かさんの(注、私のことです。)逆鱗に触れることになる。「芝居なんかやめてしまえ。」と私が罵しる。「やめます」とNが答える。「本当だな」と私が追及する。「本当です。やめます。」とNが覚悟を決めたように言う。「嘘つき野郎」と内心思いそれがますます私の怒りに火を注ぐ。「いつだ、いつだ」とNを責め立てる。「いまです」とNは言わない。(注、ありがとう!)「この公演が終ったらやめます。」助かった、救われたと思いながらも、なおも私はNを苛め抜く。「ほんとだな、嘘じゃないな、おれがいうのはここをやめろということじゃない。芝居をやめろということだ。芝居から足を洗えということだ。おまえなんか客の迷惑だ。何か他の仕事に就け。人生を台無しにするな。」……ありがたいことにNはいまも芝居を続けている。今度はまた何を血迷ったか声優を志し、某演劇研究所の試験を受けるという。心から成功を祈る!頑張ってください!
 ところで、なぜ前述のような手のつけられない醜態を私が演じる破目になったのか冷静に考えてみると、Nは足の爪の先から頭のてっぺんの髪の毛一本一本にいたるまで、関西の、上方の文化、言語圏の男なのである。Nの血も肉も骨もすべて上方の文化、言葉を生き、それに浸透され、それを呼吸しているのである。しかし、シェイクスピアの台詞にあるのは、標準語と呼ばれている日本語である。その内のある種の言葉の流れ、動きに出会うときにNは、とどから三匹の猿に退化、変身するものと考えられる。
 私は「シンベリン」の稽古の時、クロートンを演じていたNが、度々この猿に変身するのを見て、ある長台詞をすべて関西弁に変換して喋らせることにした。するとNは、立て板に水のごとく流暢に、水を得た魚のごとく生き生きと喋りまくり、動きまわったのである。稽古場に驚きの声が上がった。Nは、猿から一気にとどを超えて、N自身に、つまり人間そのものに進化、変身したのである。
 二人の大阪の女性には、気の毒な事をしたと思う。オーディションの課題(注、問1、問2)は当日手渡されたものである。準備する暇をあまり与えられずに朗読となる。東京、またはその近辺からの応募者はいいとして、関西からの女性たちには課題を前に渡し、一度、関西弁に変換して読む稽古をしてもらい、それからオーデションに臨んでもらうべきだったのではないかと考えている。いずれにしろ改良が必要である。
 午後230分頃「女性たちのシェイクスピア」オーディション第一日目が終る。いろいろな女性たちが登場し、いろいろなシェイクスピアが出現した。私の心に、もっとも強く印象づけられたのは、シェイクスピアの演技の基本、原則がいまだに確立されず、その共有もないという重い事実であった。女性たちの懸命に挑戦しようとする意欲にもかかわらず、シェイクスピアはますます混迷の度を深めているように思われる。私は女性たちのこの混乱するシェイクスピア群の中をただ((1)声)、((2)文脈)を頼りに、歩き続けた、目より耳を大切にして。

シェイクスピアの言葉(小田島雄志訳)
「暗い夜は人の目からその働きを奪いとる。
でもそのかわりに耳の働きを鋭敏にしてくれる。
見る力を取り上げておいて、そのぶんだけ
聞く力を二倍にしてくれるというわけ。
ライサンダー、あなたを見つけたのは目ではないのよ、
ありがたいことに耳があなたの声に導いてくれたのよ。」(「夏の夜の夢」ハーミア)

2012年2月22日水曜日

耳で見るⅡ


 閑話休題。オーデションに戻る。2番手の女性の登場である。顔を見る。写真を見る。顔を見る。写真を見る。驚きである。摩訶不思議である。顔と写真の関係を不等式で表すと次のようになる。顔>写真。要警戒である。目を閉じる。耳に頼る。小さな声である。蚊の鳴くような声と言わないのは、不等式がいまだに目に強く残るせいである。目を開ける。安定した立ち姿である。下半身が上半身をしっかりと支えている。履歴書を読む。身長160センチとある。それよりずっと大きく見える。「しかし、蚊の鳴くような声だ」と耳が言う。「小さい声だといえ」と目が言う。ふたたび履歴書を読む。舞台女優になるため、クラシックバレエ、モダンバレエ、タップダンス、日本舞踊、フラメンコ、狂言等を学んできたと書いてある。目も眩むほどの精進ぶりである。「それなら、もっと声を出せ」と耳が言う。「もう少しだ」と目が言う。「耳さんよ」と私が言う。「あんたの言うことはもっともだ。」続けて「目さんよ」と私が言う。「あんたの言うことはもっともだ。」「お二人とも」とまた私が言う。「第二問が、終了まで待ったらどうだ。少しはよくなるかもしれない。」目が喜んで賛成する。耳は不満げにしぶしぶ同意する。
 3番手の女性が登場する。顔を見る。写真を見る。甲乙つけがたいところである。長身。履歴書は168センチと告げる。痩身でもある。余分な肉がすべて削ぎ落とされている。世俗が影を潜め、野性がやや欠乏する。履歴書は某大学キリスト教学科卒と知らせている。といって、決して尼僧、坊主の類いではない。30代半ばの、十分に市井の人である。朗読が始まる。澄んだ気持ちのいい声である。丁寧で素直な読みかたが文意をすっきりと明確に伝えてくる。しかし、少し冷静すぎるようだ。何かが足りない。何かが欲しい。耳の厳しい評価である。履歴書を見る。ストラヴィンスキーの原曲をアレンジしたミュージカル「火の鳥」に出演したと記されている。これだと思う。しめたと思う。いけると思う。「火の鳥」の羽根の一本、いや羽毛の一本でもいい。それぐらいは、この長身にしてかつ痩身の女性の体の内部を、風に吹かれて飛んでいるはずである。女性に必要なのは、ストラヴィンスキーである。「火の鳥」である。一本の羽毛である。ここで話が先に飛ぶ。女性が第二問を読み終わると、私はたまらずに「踊ったの」と聞く。すると女性は、「踊っていない」と答える。「どうして」と私。「台詞を言うだけの王妃。」と女性。「踊ってくだされよ」と言う私の目の前を、一本の羽毛がフラフラと飛んで宙に消えていく。
 しばらくの間、蚊の声、ブヨの羽音、喉声、鼻声、胸声が、続く。履歴書に書かれている特技のうち、体育会系のもの、スポーツ的要素の多いものを列挙してみる。バレーボール、サッカー、バトミントン、バスケットボール、フットサル、ソフトボール、ドッジボール、日舞、民舞、ジャズダンス、タップダンス、社交ダンス、クラシックバレエ、水泳、サーフィン、スキー、スノーボード、剣道1段、剣道初級、乗馬、器械体操、ゴルフ、アイススケート、更には、凧上げ、競技かるたまでもある。まさに驚異である。女性たちは、なりふり構わず寸暇を惜しんで、日夜、肉体訓練に励んでいるのである。髪を振り乱し、汗を飛び散らさせ、己の肉体を鍛えに鍛え上げているのである。アルバイトの疲れもあるだろう。お金もかかるだろう。それでも女性たちは、己の肉体を鞭うち、苛め抜くことをやめようとしないのである。ここでまた、もう一つの驚異が私に襲いかかる。なぜそれほどまでに鍛えに鍛えて、励みに励んで、蚊の鳴く声が呟き、ブヨの羽音が囁くのかと。また、なぜ喉を締め上げ、胸を固く閉め切るのかと。発声時、女性たちの下半身と上半身は、全く切断された状態にある。下半身と上半身は、家族、兄弟、姉妹でありながら、アカの他人なのである。声は下半身にその源を持つ。腰に持つ。腹に持つ。内臓に持つ。NHKの大相撲解説者の元横綱は、「相撲に上半身はない。下半身だけだ。」と名言を吐いた。私も「シェイクスピアに上半身はない。下半身だけだ」と言いたいと思う。もちろん、私が言えば、極論になる。しかし、なにがしかの参考にして欲しいと切に願うのである。
 すると突然、天鳴る、地鳴る、人恐れ縮む大音声(注、だいおんじょうと読むほうがいいと思います。)が出現する。本人を見る。私に写真を見る余裕はない。再度本人を見る。肩幅の広い、胸板の厚い、がっしりした体格の女性である。頑丈な両の足がしっかりと大地(注、稽古場の床)を捉えて、仁王立ちに立つ。「悪魔さんよ!」と大声が呼ぶ。「良心さんよ!」とまた大声が招く。大音声の中にあって、呼ばれる悪魔はますます悪魔になり、招かれる良心は変じて、これまた悪魔と化す。そして、元ガラス屋の稽古場はふたたび転じて、暴れまわる二匹の悪魔の住家となる。恐る恐る履歴書に目を通す。某私立大英語学科卒と知る。イギリスの大学への留学経験もある。「大学のESSで英語劇をかじりました」ともある。私の思いは地(注、つまり稽古場)を離れ、時を越え、天を飛んで、所は備前岡山、清泉女子大学の講堂に到る。「オッス!」のドスの利いた掛け声が裏から聞こえて幕が上がる。冒頭から度肝を抜かれるうら若き女子大生達による原語上演「マクベス」の開幕である。野太い、どす黒い声が舞台を縦横に駆けめぐる。怒声。罵声。蛮声。口ひげをはやした男性かと錯覚するほどの奮闘ぶりである。私にはちんぷんかんぷんの原語上演。耳を襲する轟音に、ただただ恐れ戦くばかりである。ダンカン殺害の場が始まる前に、私は身を縮めて、静かにその場を去った。30数年も前のことである。大音声がまだ続いている。悪魔は健在である。私は現実に、稽古場に引き戻される。履歴書を読み進む。高校の時、小田島雄志先生訳のシェイクスピアを読みはじめ、大学の時、全作品を読破。大学3年の時ゼミにおいて「ヴェニスの商人」をアーデン版でOEDを片手に読み、卒論にも「ヴェニスの商人」を取り上げたと書かれている。ご苦労様!!また、最愛の夫を亡くしてから、ひとりで3人の子供を育てたとも書き綴られている。
 私のように稽古場の外に一歩出れば、能なしの役立たず、稽古場の内で、やっと何者かであるように幻覚、妄覚する者には、とてもまねのできるようなことではない。ただ頭を垂れて、心よりご苦労様と申し上げるのみである。それから勇猛果敢な大音声に対しても………。さて、オーディションはこの中年女性をハイライトとして、あとは特別に記すこともなく、無事に第1問の終了となる。   
To Be Continued

2012年2月20日月曜日

耳で見る

  211日。「女性たちのシェイクスピア」オーディション1日目。担当者全員午前915分に集合する。必ず遅刻するであろうと予測を立てていた在籍15年のSが定刻10分前に到着する。驚きである。幸先のよいスタートである。まずはめでたい。応募者総数561129名、1227名、バランスよく分かれている。オーデション開始は午前10時。
 玄関先の路上には、前回ポスター貼りであったTと新人団員Hが上下黒の背広姿で立つ。応募した女性たちがこのひっそりとしたたたずまいを見せる稽古場をそれと気づかずに通りすぎていくのを呼びとめるためである。盛り場のスカウト、あるいはキャッチ(注、チの音を尻あがりに読むのだそうである。)の類である。
 玄関のガラス製のドアの内側では、やはり上下黒のリクルートスーツに身を包んだ短身の女性Kが、今や遅しと来客の到来を待ち受ける。「先生(注、私のことです)の心の動きならすべて分かる」と豪語する在籍10年の猛者である。(注、男役が多い)
午前940分、オーディション開始まであと20分。まだ123人ほどの来客しかKは迎えていない。心配になって路上に私も立つ。T同様上下黒である。黒づくめである。違うのは、上下、背広ではなくタイトな黒ジャンパー、頭上には常用の、自宅以外ではめったに取ることのない黒いソフト帽をのせていることである。怪しまれないようにと注意しながら辺りを窺う。休日の街路に人影は疎らである。欠席者多数かと不安が募る。するとほどなく一人の若い女性が私の目の前を通り過ぎていく。どこか見覚えのあるような顔立ちである。申込用紙に添付されていた顔写真の面影をかすかに残している。「ここですよ」と耳元に囁く。女性は、ハッとなって振向くと、驚いたように黒装束の老いた小男の顔をじっと見つめる。「どうぞ」と私は稽古場を指す。女性はまた驚いたように前方をじっと見つめて立止まり、それから首うなだれてゆっくりと室内に入っていく……。女性は某有名女子大学に在籍する現役の学生である。女性にとってシェイクスピアとはロンドンであり、バッキンガム宮殿であり、載冠式なのである。また、シアターとは帝国であり、新国立であり、彩の国なのである。しかし、現実のシェイクスピアシアターとなるとなかなかそうはいかない。中野区新井13514にある。20坪余りの元ガラス屋を修理改造してなんとか稽古場に仕立て上げた代物なのである。刻苦勉励、難関校を突破したこの女性の落胆ぶりは、十分に理解できるところである。心からの同情を禁じえない。女性はオーデション本番においても、この深い失望感から立ち直ることが出来ず、首うなだれたまま抑制の利かない甲高い声で、支離滅裂に乱れながら、台詞の文脈を辛くもたどり終わったのである。
 実は、白状すると、私のこの女性に対する期待度は相当に高かったのである。もちろんポーシャまでとはいかないにしても、そのあたりに大接近するだろうと勝手に想像して胸を高鳴らせていたのである。従って、首うなだれたのは、この女性ばかりではない。私も同様の姿勢をとって深い溜息をついたのである、結局は写真がいけなかったのだといまにして思う。写真の女性は、わずかに憂いをたたえた知性あふれる美女である。私の目の前を通り過ぎる当の本人は、やせすぎの、前方に傾いだ、今にも体のバランスを失いそうな、影の薄い、平凡な女性である。憂いと見えたのはただの寂しさであったのかと、しきりに悔まれる。私は、女性を女性として見るときの私の目は盲目であり、節穴であると十分に自覚する。また、女性を役者として見るときの私の目もやはり同様であると十分に自覚する。その私が、度々とんでもない誤りを仕出かすとしても、何によって女性を役者として見ようと努めるかといえば、私の個人史、私的芸能史の教示するところでは、それは耳なのである。耳によって見るのである。

リア王の引用
「なんだ、気ちがいか、おまえは?世の中の成り行きを見るのには目などいらぬ、耳で見るのだ。」(リアが両目をくりぬかれたグロスターに言う言葉)(小田島雄志訳)

 午前10時。オーデション開始の時間である。その前に、私の短い訓辞。「うまくやろうと思うな。どの程度か高が知れている。自分のやりたいようにやれ。私は何も言わない。ただ、はい、どうぞ。と言うだけ。」
 第一問はシャイロックの召使いラーンスロットゴボーが彼のもとを去るかどうか七転八倒して悩む場面の台詞である。一番手の女性が現れる。顔を見る。写真を見る。顔を見る。写真を見る。本人と識別するのが困難である。写真と顔との距離を縮めるのに一苦労する。朗読が始まる。蚊の鳴くような声である。ブヨの羽音のような声である。たしかに、夏場、この稽古場にはかなりの数の蚊が出没する。蚊取り線香をたいての稽古となる。パシッ、パシッと蚊を叩く役者たちの無神経が私に余計な忍耐を強いる。履歴書を見る。特技、格闘技とある。発声時、下半身は無関係を決め込んで微動だにしないでいる。ただ顔面の筋肉だけがわずかに動いて、蚊の鳴き声をなんとか助けている。ふたたび履歴書に戻る。某演劇研究所に在学中とある。「どうか、どうか、お願いします。なにはともあれ、声だけは、声だけは出るようにしてあげてください。」と都内各所に無数に散在する同種の演劇研究所に対して強く要望したい気持ちになってくる。ところでこの女性、1215分ほど前に全員第1問が終わって、逆順に第2問を始めようとした時、時間がないと言い出した。おそらく10人程度の応募者と見込んでいたのだろう。仕方がない。繰り上げスタートとなる。動揺の色は隠せない。しどろもどろに裁判の場のポーシャの演説を読み終えると足早に稽古場を去っていった。後に黒いキラキラ光る帽子を残して……。連絡したが、まだ取りにこない。いまでもその帽子は事務所の机の上に置いてある。私は帽子に向かって呟く。「芝居は格闘技だ。足を動かせ。腰を使え。」と。帽子は何も言わず黙ったまま、ただキラキラと光っている。

To Be Continued
この稿、まだまだ続きます。

2012年2月15日水曜日

見せかけ、変装

210日午後3時すぎ、「女性たちのシェイクスピア」のオーディション(11日、12日)の準備をはじめる。といっても、狭い室内に椅子を並べるだけの話である。二種類のパイプ椅子、様々な形をした木製の椅子、同じく木製のベンチ。すぐに配置が終わる。30席はある。しかしどうもいけない。しっくりこない。バラバラである。統一感がない。孤独な椅子たちの寂しげな溜息が聞こえてきそうな気配である。これではせっかく応募してくれた女性たちがこの貧相で殺風景な光景を見て思わず尻ごみし、後ずさりし、くるりと背を向けて帰路を急ぐにちがいない。
ポスターを貼ってはどうかという意見が出る。早速仕事にとりかかる。室内に活気を与えるためである。壁のシミを隠すためである。次から次とポスターを貼りめぐらす。合わせてシェイクスピアシアター37年の歴史を誇示するためである。つぎにガラスの戸棚の中に飾られている紀伊國屋賞の表彰状を3センチほど右にずらす。「全三十七作品上演」の墨痕鮮やかな文字をはっきりと見せるためである。
 すると突然、会場準備を手伝ってくれていた制作担当兼役者でもあるところのTが、驚きの声を上げる。「どうした、おい」と私。「こ、こんなものがありました。」と一枚のポスターを興奮気味に見せるT。それは30年ほど前の「ヘンリー六世三部作」一挙上演のポスターである。貴重な年代物である。「ソッソッ、それは日本演劇史の輝かしい記念碑、記念のポスター、記念の紙なんだぞ!売れば何万円にもなる代物だ。」と思わずわけのわからないことをうわずって口走る私。そして、「そこに貼ってくれ」と指さす場所は、明日のオーディションで私が坐ることになっている椅子の背後の壁である。見栄である。虚栄である。見せかけである。はっきり言って軽犯罪である。
「これはどうします?」とTがまた一枚のポスターを差し出す。原色のどぎつく描かれた怪物のような男の顔である。歯をむき出して大笑いしている。「トイレのドアの裏に貼っておけ。」と咄嗟に私は指示を出す。Tがうれしそうに飛んでいく。これから少なくとも一日に一回、私たちはトイレに入り、便器に腰を落着け、いざと身構えるなり、この怪物と対面することになる。出るものも出なくなるような顔にである。これは遊びである。戯れである。愚かしい儀式である。
怪物男の顔は、お神楽の獅子の顔によく似ている。顔をガブリと噛んでいただいて、己の虚栄の罪の、見せかけの罪の、ポスターを何枚も貼りまくって、壁のシミを隠そうと試みたり、稽古場内にでんと位置する流し場の存在感を少しでもやわらげようと企んだり、37年、ただ長く続いているだけのシェイクスピアシアターの歴史を誇示しようと画策したりするケチで、さもしい詐欺行為の罪のお払いをお願いしようというのである。
 かんたんに言えば、笑ってごまかそうというのである。
 午後530分。オーディション準備完了。
 

少し長くなるが、シェイクスピアの言葉を引用する。
「うわべをごまかす変装とはなんという罪作り、
悪魔のような悪人もこうして悪事を働くのね。
ハンサムな浮気男が蝋のようにやわらかい女の胸に
自分の姿を刻みつけることなどわけはない。
ああ、女の弱さ、……」(十二夜、ヴァイオラ)(小田島雄志訳)

(注)私もTも決してハンサムなどと言える柄ではない。

2012年2月10日金曜日

クルミの殻

私の稽古場は中野の新井薬師、真言宗のお寺の目の前にある。もっと目の前にはファミリーマートがある。
2.5間、横4間、10坪あまりの小空間である。今年私は72才になる。気力はある。体力もまだあるようだ。しかし金がない。その小空間で、というより小部屋で、私は動きまわる。喋りまくる。もちろんシェイクスピアを、シェイクスピアの言葉を、である。
 稽古場の外に一歩出ると私は何者でもなくなる。ただの役立たずである。では稽古場の中に一歩入るとおまえは何者かになるのかと聞かれると、そうだと自信を持って答える自分がどこにもいない。そうだと錯覚する自分はいる。幻覚する自分はいる。妄覚する自分はいる。私にとって稽古場はそういうことを許してくれる唯一の場所なのである。そしてシェイクスピアは、シェイクスピアの言葉は、その劇世界は、たとえそれが私の錯覚、幻覚であったとしても、私に<生>の感覚を、血湧き肉踊る感覚を、与えてくれる唯一の存在なのである。

シェイクスピアの言葉
「このおれはたとえクルミの殻に閉じ込められようと、無限の宇宙を支配する王者と思いこめる男だ」(ハムレット)