2012年2月20日月曜日

耳で見る

  211日。「女性たちのシェイクスピア」オーディション1日目。担当者全員午前915分に集合する。必ず遅刻するであろうと予測を立てていた在籍15年のSが定刻10分前に到着する。驚きである。幸先のよいスタートである。まずはめでたい。応募者総数561129名、1227名、バランスよく分かれている。オーデション開始は午前10時。
 玄関先の路上には、前回ポスター貼りであったTと新人団員Hが上下黒の背広姿で立つ。応募した女性たちがこのひっそりとしたたたずまいを見せる稽古場をそれと気づかずに通りすぎていくのを呼びとめるためである。盛り場のスカウト、あるいはキャッチ(注、チの音を尻あがりに読むのだそうである。)の類である。
 玄関のガラス製のドアの内側では、やはり上下黒のリクルートスーツに身を包んだ短身の女性Kが、今や遅しと来客の到来を待ち受ける。「先生(注、私のことです)の心の動きならすべて分かる」と豪語する在籍10年の猛者である。(注、男役が多い)
午前940分、オーディション開始まであと20分。まだ123人ほどの来客しかKは迎えていない。心配になって路上に私も立つ。T同様上下黒である。黒づくめである。違うのは、上下、背広ではなくタイトな黒ジャンパー、頭上には常用の、自宅以外ではめったに取ることのない黒いソフト帽をのせていることである。怪しまれないようにと注意しながら辺りを窺う。休日の街路に人影は疎らである。欠席者多数かと不安が募る。するとほどなく一人の若い女性が私の目の前を通り過ぎていく。どこか見覚えのあるような顔立ちである。申込用紙に添付されていた顔写真の面影をかすかに残している。「ここですよ」と耳元に囁く。女性は、ハッとなって振向くと、驚いたように黒装束の老いた小男の顔をじっと見つめる。「どうぞ」と私は稽古場を指す。女性はまた驚いたように前方をじっと見つめて立止まり、それから首うなだれてゆっくりと室内に入っていく……。女性は某有名女子大学に在籍する現役の学生である。女性にとってシェイクスピアとはロンドンであり、バッキンガム宮殿であり、載冠式なのである。また、シアターとは帝国であり、新国立であり、彩の国なのである。しかし、現実のシェイクスピアシアターとなるとなかなかそうはいかない。中野区新井13514にある。20坪余りの元ガラス屋を修理改造してなんとか稽古場に仕立て上げた代物なのである。刻苦勉励、難関校を突破したこの女性の落胆ぶりは、十分に理解できるところである。心からの同情を禁じえない。女性はオーデション本番においても、この深い失望感から立ち直ることが出来ず、首うなだれたまま抑制の利かない甲高い声で、支離滅裂に乱れながら、台詞の文脈を辛くもたどり終わったのである。
 実は、白状すると、私のこの女性に対する期待度は相当に高かったのである。もちろんポーシャまでとはいかないにしても、そのあたりに大接近するだろうと勝手に想像して胸を高鳴らせていたのである。従って、首うなだれたのは、この女性ばかりではない。私も同様の姿勢をとって深い溜息をついたのである、結局は写真がいけなかったのだといまにして思う。写真の女性は、わずかに憂いをたたえた知性あふれる美女である。私の目の前を通り過ぎる当の本人は、やせすぎの、前方に傾いだ、今にも体のバランスを失いそうな、影の薄い、平凡な女性である。憂いと見えたのはただの寂しさであったのかと、しきりに悔まれる。私は、女性を女性として見るときの私の目は盲目であり、節穴であると十分に自覚する。また、女性を役者として見るときの私の目もやはり同様であると十分に自覚する。その私が、度々とんでもない誤りを仕出かすとしても、何によって女性を役者として見ようと努めるかといえば、私の個人史、私的芸能史の教示するところでは、それは耳なのである。耳によって見るのである。

リア王の引用
「なんだ、気ちがいか、おまえは?世の中の成り行きを見るのには目などいらぬ、耳で見るのだ。」(リアが両目をくりぬかれたグロスターに言う言葉)(小田島雄志訳)

 午前10時。オーデション開始の時間である。その前に、私の短い訓辞。「うまくやろうと思うな。どの程度か高が知れている。自分のやりたいようにやれ。私は何も言わない。ただ、はい、どうぞ。と言うだけ。」
 第一問はシャイロックの召使いラーンスロットゴボーが彼のもとを去るかどうか七転八倒して悩む場面の台詞である。一番手の女性が現れる。顔を見る。写真を見る。顔を見る。写真を見る。本人と識別するのが困難である。写真と顔との距離を縮めるのに一苦労する。朗読が始まる。蚊の鳴くような声である。ブヨの羽音のような声である。たしかに、夏場、この稽古場にはかなりの数の蚊が出没する。蚊取り線香をたいての稽古となる。パシッ、パシッと蚊を叩く役者たちの無神経が私に余計な忍耐を強いる。履歴書を見る。特技、格闘技とある。発声時、下半身は無関係を決め込んで微動だにしないでいる。ただ顔面の筋肉だけがわずかに動いて、蚊の鳴き声をなんとか助けている。ふたたび履歴書に戻る。某演劇研究所に在学中とある。「どうか、どうか、お願いします。なにはともあれ、声だけは、声だけは出るようにしてあげてください。」と都内各所に無数に散在する同種の演劇研究所に対して強く要望したい気持ちになってくる。ところでこの女性、1215分ほど前に全員第1問が終わって、逆順に第2問を始めようとした時、時間がないと言い出した。おそらく10人程度の応募者と見込んでいたのだろう。仕方がない。繰り上げスタートとなる。動揺の色は隠せない。しどろもどろに裁判の場のポーシャの演説を読み終えると足早に稽古場を去っていった。後に黒いキラキラ光る帽子を残して……。連絡したが、まだ取りにこない。いまでもその帽子は事務所の机の上に置いてある。私は帽子に向かって呟く。「芝居は格闘技だ。足を動かせ。腰を使え。」と。帽子は何も言わず黙ったまま、ただキラキラと光っている。

To Be Continued
この稿、まだまだ続きます。