2013年3月27日水曜日

「夏の夜の夢」の再生力 

「夏の夜の夢」のなかで私の好きなセリフの一つに、
「暗い夜は人の目からその働きを奪いとる、
   でもそのかわりに耳の働きを鋭敏にしてくれる。
   見る力をとりあげておいて、そのぶんだけ
   聞く力を二倍にしてくれるというわけ。」(小田島雄志訳 32  ハーミア)
がある。なぜこれが好きかというと、それには、私の個人的な体験を少しばかり話す必要がある。10数年前、私は心筋梗塞に倒れ、東京都港区虎の門病院でカテーテルの手術を受けた。幸い発見が早くピンチを脱することが出来た。その時、担当のY先生が、どうして撮ったのかわからないが、手術前の心臓の映像を見せてくれた。心臓は確かに動いている。しかし、冠動脈がなぜか心臓の手前のところで急に細くなっていて、血液の流れを悪くしている。これがもっと細くなって心臓に血液がいかなくなれば心臓の筋肉は死に、私も死ぬというわけだ。すると先生が、「ここをごらんなさい。」と映像の心臓を指さした。先生の指先には極細の鉛筆で描かれたような一本の線が見える。「なんですか」と聞くと、「血管ですよ、新しい血管ですよ。」と先生が笑いながら答える。「これまでなかったものなんですか。」と確かめると、「なかったんです。もともとなかったものです。身体が勝手につくったものなんです。冠動脈がせまくなったので、それとは別に血管を作って心臓になんとか血液を流そうとしたんです。」と先生の説明はやや詳しくなる。そして先生は、「タフですよ、出口さんは。」と私をからかうようにいった。
 先生の話を聞いていて私はなんだか嬉しくなった。少し元気が出てきた。それまで他人のもののように眺めていた心臓が、急に自分のもののようにいとおしく大切に感じられてきた。「心臓よ、あなたはよくぞ頑張った。」と目の前の映像にむかって頭をさげたいような感謝の気持ちが湧いてきた。私はなにもしなかった。なにも出来なかった。病床になすことなく横になっていた、手術台になされるままに横たわっていた。すべてあなたまかせ、他人まかせだった。たしかにY先生に「あと10年だけ、10年だけは生かして下さい。やりたいことがあるんです。」と必死になって頼みこみ、すがりついたりもした。しかしそれは単に気弱な病人の見苦しい泣き言にすぎない。生きようとするまっすぐな意志でもなければ、意欲でもない。その証拠に、あれから10数年経ったけれど、私はいまだにやりたいことがなんなのか、やるべきことはなんなのか、迷いに迷って暗中模索の状態にあるのだ。しかし私の心臓は、私とは無関係に必死に生きようとしていた。勝手に、私には相談もなしに新しい血管をつくり出し、血を求め、血を呼んで、ひたすら自らの命を生き延びようとしていた。そのことに私は驚いた。私ではない私が、私を生きさせようとして一生懸命に働いていてくれたことに深い感銘を受けた。
それまで私は何回も「夏の夜の夢」を演出していた。手を変え、品を変えて、いくつものヴァージョンの「夏の夜の夢」をつくっていた。しかし、冒頭に引用したハーミアのセリフに本当に出会ったのは、この、10数年前の心筋梗塞の手術後のことなのである。私の意志とは関わりなく生き続けようとする心臓の、絶えまない営みを知らされたときである。
私の心臓は、私の父母、その父母、そのまた父母、…と、気の遠くなるような年月を重ねながら形成されてきたものだ。長い歳月をかけて積み上げられ、蓄積されて、少しずつ生成されてきたものである。いわば人類史の成果だといってよい。視力を失ったハーミアの聴力がより鋭敏に変容するのは、ハーミアの愛の力だ。愛して、愛して、それでもなお愛して愛し続けるハーミアの際限のないハーミアの愛の力だ。それはハーミアのものでありながら、ハーミアのものではない、何かハーミアを越えたものだ。ハーミアは自分のものではない自分のものに駆り立てられて、暗い夜を走り続ける。
「暗い夜は人の目からその働きを奪いとる、
  でもそのかわりに耳の働きを鋭敏にしてくれる。」
そして、
「ライサンダー、あなたを見つけたのは目ではないのよ。
 ありがたいことに耳があなたの声に導いてくれたのよ。」
ハーミアをライサンダーに導く力、耳の変容をもたらす愛の力もまた、私の心臓の場合と同じように、人類の誕生以来、気の遠くなるような、長い長い歳月をかけて積み上げられ、育て上げられた人類史の成果だといっていい。私は私のちょっぴり不幸な個人的体験以来、このハーミアのセリフをそれまでとはまったく違う深さと重さをもって考えるようになった。
 このように、シェイクスピアの言葉には、セリフには、昔の昔の大昔より、いまのいまの現在にいたるまで、そして恐らくはるかかなたのそのまたかなたの未来にいたるまで変わることなく続くであろう本質的な生命力、いわば、人間の再生力、復元力、治癒力が、豊かに波うち、息づいているのである。