「テアトロ」の最新号「役者への忠告」のなかで福田恆存氏が平幹二郎主演「ハムレット」(帝劇=蜷川幸雄演出)を論じ、小田島訳の批判に及んでいます。これは去年の秋、「季刊芸術」で「せりふの美学・力学」で行った小田島批判のいわば延長上にありその縮小版ともいえるものですが、両方に共通する小田島批判の論旨は、小田島氏の翻訳は原文を平易な日本語に移し変えるだけのものであり、それはシェイクスピアの持つ躍動感を喪わせ、平板な、間のびしたものにするだけだというところにあるようです。
福田氏は「せりふの美学・力学」のなかで、こういっております。「シェイクスピアにおいては、せりふが行動的なのであり、言葉が行動なのである。」と。
また、こうも断言しております。「芝居のせりふは語られてゐる言葉の意味の伝達を目的とするものではない。一定の状況の下において、それを支配し、それに支配されてゐる人物の意志や心の動きを、表情やしぐさと同じく形のある「物」として表出する事、それが目的であり、意味の伝達はその為の手段に過ぎぬ、さう言っては言い過ぎであろうが、寧ろさう割切っておいた方がいい。随って語彙や言廻しの平易といふ事は殆ど問題とするに足りぬ。」と。
そして、小田島訳を聖書の口語訳の平板さと同列のものと断じ、小田島氏の翻訳態度は「『源氏物語』は平安朝時代の話し言葉をそのまま口うつしに書き綴ったものと言った金田一京助氏の無智に匹敵する。」とまでいっております。
果してそうでしょうか。小田島訳の平易さはシェイクスピアの躍動感を犠牲にして生まれたものなのでしょうか。そしてまた、小田島氏のシェイクスピア理解は福田氏のいうように「官立大学の教授達に給料を支払ってゐる納税者の国民大衆が気の毒である。」といった程度のものなのでしょうか。
たしかに、福田氏のいうように「シェイクスピアにおいてはせりふが行動的なのであり」、また、「意志や心の動きを、表情や仕草と同じく形のある「物」として表出する事」がシェイクスピアの翻訳において、実際の上演にあたって、如何に大切であるかは、わたしの「受験英語の授業で教わってきた知識をそのまま適用」(福田氏が小田島氏を批判した言葉)しても十分にわかります。福田氏の考え方に全く異存はありません。ただ問題は、福田氏のこの観点に立つとして、果してどちらが、「行動的」な言葉を、「言葉が言葉を生んで行くリズム」を持っているかであります。それは福田訳か、小田島訳か。
わたしの考えでは、小田島氏と福田氏のシェイクスピア観、言語観、演劇観、あるいは人間観が決定的ともいえる違いを見せているのは「ハムレット」三幕一場、あの有名な「尼寺の場」においてであります。
ハムレット
①このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
②どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに
暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒涛の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。③死ぬ、眠る、
それだけだ。④眠ることによって終止符はうてる、
心の悩みにも、肉体に付きまとう
かずかずの苦しみにも。⑤それこそ願ってもない
終わりではないか。死ぬ、眠る、
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。 (小田島訳)
ハムレット
①生か、死か、それが疑問だ、②どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を耐え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとに引かぬのと、一体どちらか。③いっそ死んでしまったほうが。死は眠りにすぎぬ-それだけのことではないか。④眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる。胸を傷める憂いも、肉体につきまとう数々の苦しみも。願ってもないさいわいというもの。死んで、眠って、ただそれだけなら!眠って、いや、眠れば、夢を見よう。それがいやだ。 (福田訳)
さて、上記のせりふは、第三独白の前半部分を引用したものであり、前者が小田島訳、後者が福田訳となっております。
まず最初の一行あの有名なせりふ、
<To be , or not to be , that is the question>をめぐって小田島氏と福田氏とでは根本的な考えかたの違いがあることがわかります。「トゥー・ビー」は恐らく三幕一場までに明らかになったハムレットの生きざまのすべてを表わす言葉であり、「ノット・トゥー・ビー」はその否定であるという立場に立つところに小田島訳が生まれ、ハムレットはいまここで生と死の想念に支配されているという訳者の認識を強く前面に出すところに福田訳が生まれたように思われます。小田島訳が漠とした広がりを持つ言葉としてあいまいに把えたところに福田訳は明確な方向性を与え、くっきりとした輪郭を持たせています。たしかにこの言葉を単独に取り出して見るかぎりでは、福田訳は小田島訳より「行動的」であるように思われます。福田氏の主張は、見事に実現されているように見受けられます。しかし、言葉は決して孤立した存在としてそこにあるのではありません。相互の関係の中に置かれています。明確な方向性と輪郭を持つと見えたものが、一つの構造を形成する時、実はその明確な方向性を、輪郭を、「行動性」を喪う場合がよくあるのです。そして最初あいまいに設定された言葉が他の言葉との関係性のうちに生きることによってそのあいまいさ故に、かえって行動性を獲得するということも起こりえます。
なぜシェイクスピアはトゥー・ビーをトゥー・リヴとしなかったのか、なぜ、ノット・トゥー・ビーをトゥー・ダイとしなかったのか、そして小田島氏はなぜ「このままでいいのか、いけないのか……」と訳したのか、その理由もまたそこにあるように思われます。
そのことを①と②の関連性に置いて具体的に考えてみることにします。まず、小田島訳では、原文のあいまいさに、その広がりに注目して①を訳出しているいために、②に移動することによって①が限定され、鮮明なイメージへと収斂する度合が福田訳より強くなっていることがわかります。というのは、福田訳では最初に原文に明確な解釈、限定を与えたために、①ははじめから②に含まれる場所に位置をとることになり、従って①から②の移動は同じ場所内での移動となって、小田島訳が新しい場所への移動という印象を与えるのに対して、福田訳では予想されたものが予想される所に移動したという印象を与えることになるからです。
つまり、①をあいまいに出発させた小田島氏は言葉の動き、行動によってある新鮮な発見を与えることに成功し、明確な態度を表明して鋭いスタートダッシュを見せた福田氏は次第に減速して、鮮度のある発見を与えることが難しくなっているというわけなのです。それでは②そのものの内部ではどうなっているのでしょうか。
ここでも福田氏は「ハムレットは意志的であり、行動的である」という観点に立って、原文を大胆に解釈し、勇ましい日本語を選ぶことに専念しているように見受けられます。全体に、福田氏ではハムレットの武人としての性格が強調され、従って小田島訳・福田訳の双方に見られる「運命」「苦難」という言葉が、福田訳ではハムレットの復讐により強く結びつけられることになっています。そして小田島訳は①でみせたあいまいさをここでも保持しています。たしかに「運命」「苦難」は、復讐と関係づけられてはおりますが、その言葉は同時に母への性的嫌悪感かもしれず、「さげすまれた恋の痛み」かもしれず、「くだらぬやつ相手にじっとしのぶ屈辱」であるかもしれない。要するにハムレットの<生>に圧倒的に、暴力的に襲いかかる何かであって、「雀一羽落ちるのも神の摂理」と感じるハムレットには、人生のどんな些事も「運命」に「苦難」に思われるというわけです。私見によれば「ハムレット」の面白さはハムレットが復讐という大事から逸脱して人生の小事にこだわるところにあるように思われますが、そのことはいずれ、ハムレットとオフィーリアの関係に言及するときに深く考えてみたいと思います。ここでは、もう少し②にこだわっていきましょう。福田訳は②の後半「とどめを刺すまであとに引かぬのと」のあたりやや説明的になってくどく、わずかながら、言葉が停滞する感じを与えます。また「どちらが男らしい生きかたか」と比較されている二つの生きかたの関係が全体の文脈のなかで弱くなり見失われそうな危険性があるために、最後にもう一度「一体どちらが」とくりかえすことによって②を引き締めにかかっています。
福田氏が言葉を行動させるため、言葉を行動的に見せるために苦労していることは十分わかりますが、福田訳は、このあたり、意図的であり、作為的であり、つくられた行動、つくられた言葉のリズムであるという印象を否めません。これが福田氏の自負するように「日本語が多少とも達者の操れる」ことであり、「私が狙ったのはシェイクスピアのせりふに潜む強さ、激しさ、跳躍力、そこから出てくる音声と意味のリズムである」ことなのでしょうか。小田島訳では「敢然と」の<カ>音、「立ちむかい」の<カ>音、「闘って」の<カ>音、それに「立ちむかい」「闘って」の<タ>音を連ねることによって、言葉に「音声と意味のリズム」を与えることに成功しています。②の内部においても福田訳は解釈を、明確に大胆に打ち出そうとしたためにかえって全体の文章の調子にある弛みが生じ、小田島訳ではあいまいさを保持しながらも全体の調子は、きりっと引き締まったものになっています。そして③にきて両者の態度の違いはもはや決定的ともいえる段階に達します。明確さとあいまいさが単に程度の差と言った次元を超えて、本質的な対立を示し、小田島訳の行動性が福田訳の行動性のあいまいさを鋭く告発いたします。一見、③において小田島訳では実に簡素に、何の飾りもつけず無造作に言葉が投げ出されているように見えます。言葉は無表情にゴロリと寝ているように見えます。それに対して福田訳は「いっそ死んでしまったほうが」と積極、果敢な動きを、激しさを見せております。原文は<To die , to sleep No more>。やはり福田訳は明確な解釈を打ち出し、小田島訳は殆んど直訳に近い形をとっていることがわかります。福田氏は原文の無表情な言葉の並列に耐え切れず、小田島氏はそれにじっと耐えています。小田島氏は何を根拠に耐える姿勢をとり続けているのでしょうか。恐らくそれは私見によれば、俳優と観客の存在です。俳優の演技と観客の想像力にすべてを委ねるところで、小田島氏はあいまいさに、直訳に耐えていると言えます。つまり、こういうことです。小田島訳では、「死ぬ、」という言葉とそれを発する俳優との出会いに全てが賭けられています。俳優の言葉との出会いによって喚起される、観客の想像力の飛翔に全幅の信頼が寄せられています。たとえば、俳優は「死ぬ」という言葉を衝動的に発するかもしれない。また、深く沈むように、あるいは、不安におののくように発するかもしれない。いずれにしろ小田島訳では「死ぬ」という言葉と俳優の出会いは無数に許されているように見えます。俳優の表現の自由は大巾に許されているように見えます。どの出会いを自分の必然的なものとして選ぶかはすべて俳優に委ねられています。しかし、ここが肝心なところだと思いますが、俳優がどの出会いを選ぶにせよ、出会いが無数に許されてる以上、彼にとって、彼女にとって、自分の選びとった出会いが果たして本当に自分にとって必然的なものかどうかという疑問が、不安が湧いてきます。不安は俳優を出会いの再検討へと向かわせます。しかし、出会いが無数にある以上俳優は、この不安を決して根底から払い去ることは出来ません。俳優と言葉との格闘は稽古中も、本番中も果てしなく続いていくことになります。
このあたりが私見によればシェイクスピアを演じる場合のもっとも本質的なところであり、シェイクスピアのもっとも面白いところであり、俳優の立場からすればもっともシェイクスピアに魅かれるところだと思われます。シェイクスピアはそういう性質を持つ言葉の世界を創ったのであり、小田島訳はシェイクスピアのこの本質的な場所に自分を置くことにあくまでも固執しているというわけです。さて、当然のことながら、この俳優と言葉の出会いをめぐっての戦いは観客の想像力を強く喚起します。飛翔のための大きな翼を用意します。いま、こういう気持ちだから、こういう言葉を喋っているとすぐにわかる演技ほどつまらないものはありません。俳優と言葉が必然的な出会いをしていることはまぎれもない事実であると感じながら、その言葉が決して一元的には決められない多様な可能性として迫ってくる時にはじめて、観客の想像力に火がつきます。はじめて俳優と観客は、緊張した、充実した関係を持つことが出来ます。小田島訳の言葉に対する控え目な態度はそのことを期待するところに、また小田島氏自身が豊富な劇場体験によってそのことの重要性を身に染みて知っているところに生まれたものといえます。
そして小田島訳とは対照的に福田訳では、俳優と言葉の出会いにあらかじめ注文がつけられており、福田氏の意図する方向においてのみ、福田氏が指定した軌道上においてのみ、俳優は言葉と出会うことが許されております。したがって俳優は自分の生理を、肉体を、意識を、いわば福田氏の生理に、肉体に、意識に同化させることによってのみ、表現性を獲得することが出来るといえます。そして、当然のことながら、観客もまた想像力の飛翔する方向を、高さを、速さを制約されることになり、福田氏の指揮下に一糸乱れず、整然と隊列を組んでいくことが要求されております。福田訳には常に正解があり、その正解はいわば神のように君臨しているといえます。
といっても、別に小田島訳には正解が存在しないというわけではありません。「死ぬ」と、あいまいに言葉を設定した時、小田島氏自身一つの明確なイメージを持って、その言葉を選択したことにまちがいありません。しかし、小田島氏は自分の正解に留保を置いております。留保を置くことがかえって言葉の表現性を高めることを知っております。
小田島氏の正解は俳優の、観客の正解と同じ背たけを持ち、同じ重さを持って同じ列に並んでいるように思われます。そしていうまでもなく、シェイクスピアはこの留保を、あいまいさを縦横に駆使することの出来た天才でした。彼は一つの言葉にあいまいさを附与しただけでなく、劇構造そのものにもあいまいさを仕組みました。劇中にいくつもの視点を用意して一つの行動、一つの状況に対して相対的に近づくことを求めました。その典型的な存在としては道化がおります。道化は、ヒーロー、ヒロインに常につきまとい、彼らの、彼女らの行動を、生きざまを相対化する視点を提供し続けるのです。また「アントニーとクレオパトラ」のような芝居では、二人の恋人をめぐって、各登場人物たちが様々な見解を披露することによってこの相対化の機能を果します。
そして、私見によればハムレットはハムレット自身を相対化する存在として設定されています。ハムレットは突如不可解な行動に走りますが、それはハムレットの内部でこの相対化の嵐が吹き荒れていることの結果だともいえます。このハムレット解釈はハムレットを意志の人、行動の人と見る福田氏の解釈とは根本において対立しておりますが、ハムレット論についてはまたの機会にゆずることにして、ここではもう一度③に戻ってみたいと思います。③と⑤の関連において小田島訳、福田訳の違いをみたいと思います。さて、両者を比較してまず目につくのは、小田島訳において③の「死ぬ、眠る、…」が⑤で繰り返して使われていることです。そして、この同じ言葉が、⑤において、③の時よりもハムレットの死への傾斜が強くなっているために、より鋭い緊張を帯び、質的に変化を遂げていることがわかります。③においては「死ぬ、眠る、」はまだハムレットの意識の外側に、その周辺にありましたが、⑤では「死ぬ、眠る」はハムレットの意識に同化し、意識そのものともいえる次元に達しております。したがって⑤における「死ぬ、眠る」というこの短い言葉のつくりだすリズムは、ハムレットの意識の動きのリズムとも感じられ、意識が死の世界に、眠りの世界にまるごと降りていく様相を見事にとらえているといえます。そしてもう一度「…眠る」と意識が踏み出そうとした時に、意識は何事かを鋭敏にキャッチ致します。それが「おそらくは夢を見る」という言葉に結実いたします。とたんに意識は死の世界から、眠りの世界から引きあげてきます。そして意識は次第に覚めた状態に戻ってまいります。それが「そこだ、つまづくのは」です。
「死ぬ、眠る」が、③と⑤において繰り返され、、⑤の内部でもう一度繰り返されようとした時に、その動きに急に破局がくる、この絶妙な繰り返しの効果といい、「死ぬ、眠る」がハムレットの意識に同化し、死の世界に傾斜していく動きをみごとに伝えるリズムといい、これこそシェイクスピアにおいては、せりふが行動的なのであり、言葉が行動である」でなくてなんでしょうか。これこそ、「言葉が言葉を生んでいくリズム」でなくて何でしょうか。福田訳では前に見たように③において明確な解釈を打ち出したために、⑤における繰り返しは不可能になっています。そして⑤の内部においてもハムレットは死のこちら側で、眠りのこちら側で、死について、眠りについて、あれこれ思案をめぐらすといったところに留まっています。わずかに「眠って、いや眠れば、夢もみよう」。の「眠って」が死への下降を示しているに過ぎません。もはや、ここにおいてあいまいさと明確さはそれこそ明確に逆転しています。あいまいさは「行動性」を獲得し、明確さは「行動性」を喪っております。とすれば、福田氏の小田島氏批判はそのまま福田氏の頭上に投げ返さなければなりません。
|